中澤きみ子さん ヴァイオリニスト「奇跡のヴァイオリニスト」
目次
ウィーンの想い出と音楽家的過ごし方
由結:さて、本日の素敵なゲストをご紹介いたします。ヴァイオリニストの中澤きみ子さんです。本日はお忙しところお越し頂き、誠に有難うございます。
中澤:こちらこそ有難うございます。
由結:中澤さんは、ソリストとして、そしてヴァイオリン界でも五本の指に入るという素晴らしいご経歴をお持ちです。これまでに海外にも多く行かれているとお伺いしておりますが、その時のお話をお聞かせ頂きたいと思います。心に残っている場所、一つあげるとしたらどちらでしょうか。
中澤:やはり、頻度からいくとオーストリアのウィーンが一番ですね。もちろんウィーンって音楽の都ですから、音楽家にとっては必須な場所であり、勉強の場所でもあることも、確かですね。
由結:素晴らしいですね。ウィーンでインスピレーションを受けることはその後の演奏にも良い影響がありそうですね。
中澤:そうですね。やはり多くの演奏家、ほぼクラシックの演奏家として代表的な演奏家は、作曲家を含めてウィーンで過ごしているので、例えばベートーベンと同じ場所を散歩してみるとか、同じお酒を飲んでみるとか。
由結:素晴らしい!
中澤:さらに、同じホールで弾いてみるのもいいですね。作曲家が自分に近く感じられるんです。では「具体的にどう変化したの?と言われますと、表現し難いのですが、音楽家としては、雰囲気から始まって、食べるものなどすべてウィーンのエネルギーを頂くんです。それが全てが音楽の表現に繋がっていくんですよね。
由結:なるほど。日常がとても大事なのですね。
中澤:そうですね。シュヴェヒャート空港があります。昔、今すごく近代的な空港に変わっちゃって残念なんですけど、昔は本当にのどかなところに降り立っていた時代がありました。そこに降りた途端に、私が最初に感じたのは、「空港の匂いが違う」ということ。その匂いってなにが違うのかなと思ったら、ハーブの匂いなんですよね。日本にはない。パフュームっていうよりはハーブっていう感じでした…!
由結:薬草の、独特の香りなんですね。五感で様々なことを感じることが、自然に音楽活動につながっていくのですね。
父とともに毎日続けたお稽古
由結:中澤さんのように活躍したいと憧れていらっしゃる方は多くいると思いますが、そこに至るまではどのようなご経験を積まれたのでしょうか。
中澤:簡単ではなかったですね、常に努力は強いられました。
由結:競争の激しい世界ですよね。普通の努力では今の中澤さんのようなご活躍はないですよね。中澤さんは自然に導かれるようにヴァイオリンを始められているように拝察しているのですが、幼少期はどんなお子さんでしたか。
中澤:そうですね。自然に導かれたかというと…田舎でしたし、ヴァイオリニストっていう職業があることすら知りませんでした。ですから、自然というわけではなかったと思います。父が音楽愛好家で、アマチュアでヴァイオリンを弾いていたんですよね。それで父の夢の中に、戦争から帰ってきたときの話があるんですけれども、負けて帰ってきて、うちに帰るまでの道すがら、40分ぐらい歩く中で、どこかからヴァイオリンの音が聞こえてきたそうです。戦争での敗北が自分の今までのエネルギーを使い果たし、またそれも夢もやぶれ、全てやぶれた中に、ヴァイオリンがスーッと、清涼飲料水のように、心に入っていった。もしかしたら平和がやってくるのかもしれないって。そして、平和がやってきて、僕にも結婚ということがあり、そこに子どもが育ったとしたら、その子が5歳になったらその子にヴァイオリンをやらせるんだって、道端でしたらしいんです。ドーッと、濡れるぐらいの涙が、こらえていた涙が溢れた…と、よく父が話してました。
由結:すごいですね。お父様の中にインスピレーションが湧いたのですね!
中澤:そうですね。私が5歳になるまで待って、もう迷わずヴァイオリンの先生を探して、ただ本当に経済的に恵まれてるわけではなかったので、ある夜中に父と母が障子一つ隔てた向こう側から、なにやら相談事をしているのが聞こえてきちゃったんですよ。私も感受性が鋭いので、なんとなく眠れなくって、5歳ながらなんですけど、聞き耳を立ててたんですよね。そしたら、いよいよ5歳になったからヴァイオリンをやらせたいんだけれど、幼稚園も入れたいと。「だけど、両方のお金はうちにはないよねっていうお話なんです。幼稚園にやるか、ヴァイオリンを習わせるかどっちかの選択なんだけどっていうことを、父が母と話してるんです。二人の決心がどうやらヴァイオリンになったんですよ。私は障子の向こう側で「やったー!ヴァイオリン習えるんだと思って、だから私は幼稚園には行けなかったんだけれども、ヴァイオリンを習わせてもらうことができたんですね。
由結:まさに運命の瞬間ですね。子ども心に自分の進むべき道がわかっていた、と。
中澤:そうですね。だからなんの戸惑いもなく連れてかれて、ヴァイオリンの先生のところに行って、「先生のところに行ったらちゃんとご挨拶するんですよ、座ってねって言われていたものですから、ペタンとお座りしちゃって、「よろしくお願いします」と。そしたら、先生が、「ここはね、立ってご挨拶で大丈夫なんですよ」っておっしゃってくださって(笑)
由結:まあ(笑)。お父様とお母様が与えてくださった素晴らしい機会だったのですね。
中澤:そうです。それからはもう本当に毎日毎日、お稽古するっていうことは当たり前だと思ってたので、私の生まれた信州ってすごく寒いのですよ。もう真冬は零下何度になっちゃうんですよね。当時、本当に家屋は暖房も設備もできてなかったし、我が家は、こたつが一つあっただけだったんですよ。こたつの布団をはいで、その中に足を入れて、こたつの板の上に譜面台を乗せてっていうのが、朝のお稽古のスタイルで、あとは本当に寒い中で、大体朝だったんです、お稽古が。5時半ぐらいに起こされて、父が出勤が早かったので、もう6時からお稽古でしたね。もう冷たくって、ケースの中からヴァイオリンを出して、この首のところに当てられたあの冷たい感覚が未だにまだあるんですよね。まだ体が起きたばかりで温かかったので、指は回ったんだと思うんですけどね。それを小学校5年生ぐらいまで、父と一緒に続けました。
由結:欠かさず続けるというのは凄いことですね。
中澤:そして、5年生の終わり頃、「きみ子、自分でやりなさいよ」って父が言いまして、父が離れていき、家でのお稽古は一人でやるようになりました。
由結:一人でもやり続けた、と。苦ではなかったですか。
中澤:もう習慣になっていたので、別に好きでも嫌いでもなんともなくって、日常の中に弾くものだという、多分そんな長時間じゃなかったと思うんですね。もう30分40分ぐらいだったかもしれないし、長くても1時間ぐらいだったと思うんです。ですから、あんまりそれによってなにかを制御されたとか、我慢したとか、そういう記憶は全くないですね。だからとても恵まれてましたね。
由結:そうやって習練を重ねても、プロになれる方は一握りという世界ですよね。
中澤:そうですね。だから今の子どもたちを見てると、むしろかわいそうだなって。ですから、私は外遊びもできたし、ヴァイオリンは朝のうちにやっちゃったので、学校から帰ってきたあとは、その当時は塾もないし、思いっきりお友だちとも遊べたし、ご近所にも行きましたし(笑)。
由結:のびのびと過ごされていたのですね。
ヨーロッパへの扉が開いたとき
中澤:はい。ただ朝早く起きなきゃいけなかったんで、厳しかったといえば、夜8時には寝ることでした(笑)。ヴァイオリンが弾ける音楽の先生だったら楽しいだろうなと思って、教育実習とかも全部やりましたし、中学校と高校と全部やって、卒業のときにすんなり就職試験、教員の採用試験を受けようと思いました。担任の先生に行ったら、担任の先生もちょっと首をかしげて、「いや、でもね、あなたは学校の先生にしたらヴァイオリンがうますぎるんだよね」って言われて、ああ、そうなんだ。なんとなく自分もそんな気がしたけど、うまいのかなって、なんか評価されている。比べるものがあまりにも周りになくて、自分がどのぐらい弾けるかもよくわかってなかったんですよね。先生から「東京に行って、大学院を受けたらどうかって言われたんですね。そこが初めて岐路というか、初めて悩んだことでした。それでうちに帰り相談すると、やはりお金の問題が出てきて、東京に出て、大学へ行き、一人で暮らすということは家賃も発生する。それを計算してみるとどうにも無理かなと思っていた矢先に、50人の生徒さんを持つヴァイオリンの先生がご結婚と同時に、お辞めになることになったというお話が舞い込んで参りました。それで今、先生を探してるから、その50人の先生のヴァイオリンの先生になってくれないかという話がきて。だから私はずっと大学を卒業してから、毎日毎日50人の小さい生徒さんのヴァイオリンの先生を10年間ぐらい続けたんです。
由結:そんなことがあるのですね!必要なときにまたとない機会をいただけたということですね。
中澤:ですね。だから、経済的にも自立ができて、でもやっぱり教えてるばかりだと自分のヴァイオリンがどうしても行き詰まるときがあって、子どもに教えることも好きだし、子どももどんどん伸びてきたけれども、やはりヴァイオリニストとして、「外国の音楽の都を見てみたい」「外国にはどんな音楽があるんだろうと思って、まずちょっと1カ月だけお休みをいただいたんです。お母様たちにお話をして、「お子さんたちに教えることにも役立つと思いますから、1カ月ヨーロッパに行ってきますということで、講習会を受けにいきました。そこで思わぬことが起きて、なにやら、全てうまくトントンといきまして、結局は講習生の中でも最高の機会をいただいて、モーツァルテウム学院という、素晴らしい音楽院で、ファイナリストに選ばれました。
由結:まさにご自分の前に道が出来上がっていったという感じですね。
中澤:そうですね。ヨーロッパへの扉がそのときに開いたんです。
人生の危機
由結:素晴らしいですね。トントン拍子に道が開かれたという中澤さんですが、人生の危機のようなものはあったのでしょうか。
中澤:そうですね。危機といいますか、最大の喜びと申しますか、大変だったことは、結婚して子どもが生まれたときの話ですね。自分が今まで大事にしてきたもののナンバーワンがヴァイオリンだったのが、それに引けを取らない子どもという存在が、しかも一人で生きてけないという存在が出てきたときは、本当に喜びであり、迷いましたね。
由結:迷いですか。
中澤:あまりにもかわいいので、ヴァイオリンを一旦休んで、この子のために私を使わなきゃいけないんじゃないかって思うことがあったんですが、アスリートの部分もあるので、ヴァイオリンってやめるわけにはいかないんですね。
由結:やはり休むと退化するのでしょうか。
中澤:24時間休んだら、もう次の日には24時間分の筋肉やらなにやら、いっぱい衰えちゃうんですよ。とにかく毎日弾かなきゃならないっていうところで、とても悩みました。でもなんとか主人に手伝ってもらったり、母親に手伝ってもらったり、それから赤の他人にもお預けしたこともありました。もう本当に抱きついてくる子どもに涙を流したことも何回もあったんですけれども、大きくなった今、一人前になった息子にあとで聞いてみたら、「全然そんなこと思わなかったよ」って。「なんか不自由だって感じたことあった?」って言ったら、「なんにも感じなかった」って言うので、よかったんだなって思います。
由結:ちゃんとお母様の思いが伝わっていたんですね。
中澤:そうですね。
由結:素敵なお話ですね。本当に危機というよりは、人生の素晴らしいエピソードですね。
中澤:そうですね。選択しなきゃならないっていう。どうしようってときでしたね。それから、今度これは本当に危機ですけど、大事故に遭っちゃったんですよ。交通事故だったんです。叩きつけられまして、自転車に正面衝突しちゃって。
由結:大変なことですね!中澤さんのほうは自転車だったんですか。
中澤:自転車じゃないんです。少年の自転車がヒューッと、こう、歩道の近くまで来て、私は渡ろうとしてたのをちょっと隅っこにいたんですけど、かすってしまって、ガッと転びまして、もう粉々に肘が割れちゃったの。それで救急車で運ばれて、病院について、先生が「粉砕骨折ですね」って、「粉砕ってなに?」って、なんかね…。
由結:想像しただけでも恐ろしい!
中澤:もう中のほうがとにかく粉々。先生がこうレントゲン写真を見ながら、「中澤さん、でもヴァイオリニストですよね」って言われて、「そうなんです。腕がないと困るんです」って。先生は「困ったな」っておっしゃって、そこを通りがかったある医者が、「僕やります」っておっしゃって。
由結:通りがかりのお医者様?
中澤:そう。同じ科のちょうど通りかかったお医者様が、この写真を見て、なんか気になったんでしょうね。「僕やります。任せてください」と。本当、助かったんですけど、彼がすばらしい手術をしてくれて、完全に治ったんです。指は大丈夫だったので、肘の部分だけだったんですけど、そんなときに限って、1カ月後に東フィルとコンチェルトを控えてたんですよ。それに間に合うかどうか不安でした。
由結:大変なことですよね。
中澤:それでまず考えたことは、間に合わなかった場合には、弟子がいっぱいいるので、もうそういう曲を弾ける子に、「悪いけど、先生が当日駄目だったら、あなたが弾くのよ」って、「この曲の時にさらっといてね」って言っときまして、それで、「わかりました。さらっときます」って言って、その子はあとでちゃんとしたオーケストラのコンサートマスターになりましたけどね。この腕がサイズ、フルサイズにならないんですよ。小さいヴァイオリンには曲がるところまでいったんですけど、それを温かいところで、ギューッと伸ばしていってもらって、それは主人にお風呂に一緒に入ってもらって、温まると痛みが弱まるので、ギューッと伸ばしてって、だんだんフルサイズのヴァイオリンに合うようにしていきました。うちは、たまたまヴァイオリン屋さんなので、子どものヴァイオリンもあるんですよね。小さいヴァイオリンで弾いてて、こう、ギブスがあっても弾けるサイズで弾いてて、それをだんだん大きなヴァイオリンにしてって、それでも痛いので、外科の先生が、「ステロイド剤をそのときだけは打ちますから」とおっしゃってくださって、「そのときだけですよ」って言われて、それが当日まではわからなくて、小さいヴァイオリンで弾きながら、やっと大きなヴァイオリンになって、1週間ぐらいだったかな。弾いちゃったんです。
由結:ええ!凄い。弾いてしまったのですね!
中澤:見事に弾いちゃったんです。そしたらその日、指揮者の先生もヘルニアをやったあとで、それでステージに立ったときに二人で、「今日はリハビリのコンサートですな」っておっしゃって(笑)。
由結:もうこれは中澤さんだからこそできることですよね。
中澤:そうですね。もう20年以上経ったのでお話できることなんですけれど、だから団員の方は誰も気が付かれずに。
由結:流石ですね。
中澤:こなしました。でもあんなに苦しいことはなかったですね。
由結:そうですよね。いや、もう、痛みもそうでしょうけれども、不安とか、これ大丈夫なんだろうかってありますよね。
中澤:そうですね。思うように練習もできてないですし。
由結:なにかそのあとで変わったことってありましたか。
中澤:うん。そしたら、骨折したおかげでビブラートがきれいになっちゃったんですよ。なんかわからないんですけど、今もだからここになんか入ってるんですよね。金具が一本。これはあの世までお持ちくださいって先生に言われてるんですけど、それによってちょっと感じなんか違ったんですよ。
由結:何かが違うんですね。
中澤:うん。それがむしろいいビブラートになっちゃったんです。
由結:そんなことがあるんですね。
中澤:そうなの。より良くなっちゃって。これはもう神様の贈り物としか思えない。
由結:そうですよね。導かれてますね、やはり。
中澤:そうですね。だからそれから「弾けるってことがこんなに幸せなことなんだと、あれはきっと神様が当然のように私が弾いてたから、「少しここで大事にしなさいよっていう、あの事故をくださったのかもしれないって思えるようになり、それからはいろんなことを気を付けるようにもなりました。それからヴァイオリンを弾けてるってことに感謝もするようになりました。
由結:それまでもきっとそういう思いもあったけれども、より自覚が生まれたということですよね。音がよくなったこともそうですけど、その気持ちが変わったっていうのがなによりのプレゼントかもしれませんね。
中澤:そうですね。
音楽活動50年を記念したコンサート
※公演はさらに延期が決定しました。
延期公演は2022年5月27日(金)
開演19:00(予定)
由結:素晴らしいお話ですね。そんな中澤さんの昨年延期されたコンサートがまた開催されるんですよね。これは音楽活動50周年ですね。70歳の節目として開催予定だった集大成のコンサートとお伺いしております。
中澤:そうですね。実は去年やるはずだったので、1年延びたことにより、このコロナという感染症の中で、世界中が変わってしまいましたよね。そうすると、はじめは「1年も先に延びちゃって大変だ」と思ったんですが、私の音楽の必然性がもう変わってきたんですよ。それから、皆さんの音楽に求めてくださる気持ちも変わってきたと思うのです。やはり心に寄り添う音楽。コロナ禍だからこそ、不自由も強いられ、人とも会えなくなったときに、音楽を聞いて涙をしたり、音楽から、音楽と会話を一緒にできるみたいな、ですから、もしかすると、この1年延びたということにも意味があったのではないかと、やっと思えるようになりました。
由結:音楽と会話を一緒にできる…素敵ですね!
中澤:実は、オーケストラをバックだったので、すごい名曲を並べるんですけど、オーケストラはほぼ弟子ばっかりで、長い間に私が育てた弟子たちが全員ステージに立ってくれるんですね。
由結:お弟子様らとの共演、素晴らしいですね。
中澤:それから、あとはコンサートマスターと、チェロのトップは、ウィーンの私とずっと世界を回ってくれた友だちの演奏家がウィーンからもやってきてくれて、オーケストラができあがります。
由結:まさに中澤さんのこれまでのご活動の集大成ですね!
中澤:そうです。ですから、ぜひ皆さんに紀尾井ホールに10月9日には、いらしていただきたいです。
由結:そうですね。ぜひ、こちら、『中澤きみ子 My Favorite Concertos』というコンサートです。10月9日土曜日の14時開演です。ウェブ上にございますので皆様も是非、お運びください。
※公演はさらに延期が決定しました。
延期公演は2022年5月27日(金)
開演19:00(予定)
また、中澤さんは東日本大震災の津波で生じた流木から作られた津波ヴァイオリン。これを広める活動を行っていらっしゃいますよね。こちらについて、お伺いしてよろしいでしょうか。
東日本大震災を機に生まれたTSUNAMIヴァイオリン
中澤:はい。これは主人と二人の歩みですけれども、主人はヴァイオリンマイスターといいますか、ヴァイオリンを修理したり作ってることがお仕事なんですね。
由結:はい。有名なヴァイオリンマイスターの中澤宗幸さんでいらっしゃいますから。
中澤:はい。そうです。これまでは主人がこういうネーミングで津波ヴァイオリンっていうのを作るつもりはほぼなかったと思うんです。それが、やはり10年前にああいうことが起き、私がテレビを一緒に見てるときに、家屋やらなにやらがとにかく流されてくわけですよね。それまでも私たちはヴァイオリン制作にかかわっているので、日常の会話の中にいつでも、「この木ってヴァイオリンになるの?」とか、「あの木っていい音出そうじゃない?」という会話がわりとあったんですよ。
由結:なるほど…そういう見方なんですね。
中澤:でもその悲しい中でも、木が流れていくっていうのがすごくなんか、「ああ、あれはお父さんがお金を貯めて作った家の木だ」とかってなんか思ったら、もうすごい涙が出てきちゃって、「そうか。もしかしたらあの木でヴァイオリン作れないのかな」って、ふっとよぎったんですよ。主人に何気なく喋っただけだったんですけれど、主人は行動に移すのが早くて、すぐに東北に出かけていっちゃったんです。それで、たくさんの流木が積んであるところに行って、全部コンコンと叩いて、主人は材木業だったので、ヴァイオリンになる木とか、良い木とかなんとか、全部叩いたりすると、見るだけじゃなくてわかるんですよね。これは良さそうだっていう木を瓦礫の中から頂いてきまして、それでとうとうヴァイオリンを作っちゃったんです。
由結:流石ですね。
中澤:そうなんです。それで、今まではヴァイオリン職人としては、イタリアの木でしか作ったことはなかったので、「日本の木で、しかも流れ着いた木で、はたしてどんな音が出るんだろうってことで、最後までわからなかったのです。最初にできたとき、パッと弾いたときに、やはり私が一緒に住んでるので、「ちょっと弾いてみて。できたよ」って言ったときに、すごい強い音が出たのですよ。
由結:どんな音だったんですか?
中澤:少し粗削りで、本当に荒波の中を生き残ったとでも言うような、強い音なんですよ。こっちの馬力もいるし、これはそれでも弾くにはちょっと大変だから、「こうならないの?ってことで二人でやり取りをしまして、主人も、削ってみたり、ニスを普段とは違うニスを塗ったり…とやってるうちに、やっと滑らかないいヴァイオリンができあがったんです。
由結:お二人で作り上げたということですね。
中澤:はい。あそこには、今ありますように、うしろに一本松の絵が描いてありますでしょう。あれは中国人の画家さんで、二胡の奏者である方がお友だちなんです。彼が一本松の絵を、ヴァイオリンのうしろに描いてくれたんです。それで完成しまして、それからボランティアで、二人で被災地はじめ各地に行きまして、皆さんに聞いていただきました。ほかにもいろいろな方に弾いていただき、10年経ったんですね。その間に、もうその津波のヴァイオリンが受けた皆さんの涙とか気持ちが本当に受け取ったらしくって、もう10年前とは見違えるほどにいい音に今、変わってるんです。ですから、「気持ちを込めて演奏するってこういうことなんだって。だから木でもなんでも、植物でもそうですけど、気持ちを込めて水をやるって大事なことじゃないですか。ほったらかしにされてるのではなくてね。ですから、私も本当にこの、ストラディヴァリウスを普段弾いてますでしょう。もちろん世界遺産を預かってるから、練習をして、一生懸命いい音を出そうとして、気持ちも込めてるけれども、この津波のヴァイオリンを弾くときには、やっぱり涙なしには弾けないんです。全然違うんですよね。
由結:そういうものなんですね…!気持ちが本当に込められてるんでしょうね。
中澤:お客さんの反応も全く違いますし、涙を流す方も多いです。
由結:きっと皆様、その音色を聞いて様々な思いが湧いてくるんですね。
中澤:そうですね。ですから本当に二人三脚で、私共、ヴァイオリンを弾けるうち、主人も命があるうちは、二人のライフワークだと思ってます。
由結:本当に大切なご活動ですね。
中澤:はい。ですから、できるだけたくさんの方に聞いていただき、当時の皇后陛下美智子さまや天皇陛下にも聞いて頂き、素敵なお言葉を頂きました。「どうぞ、皆さんに、一人でも多くの方に聞いてもらってくださいね」と、メッセージも頂きましたので、本当に元気でずっと弾き続けたいと思っております。
由結:そうですね。ぜひたくさんの方にお届け頂きたく思います。本当に素敵なお話です。
中澤:ありがとうございます。
由結:さて、中澤さんは指導者としての立場から、ヴァイオリニストが受ける教育について、教えていただきたいと思っております。
中澤きみ子流ヴァイオリニスト教育論
中澤:そうですね。本当に難しい部分なんですけれども、ヴァイオリニストを育てるのか、音楽好きな子どもにするのか、職業にするのか、先生にするのかで、だんだん分かれてくんですよね。最初はやっぱり楽しく音楽を好きになってほしいっていうのが私の第一の希望です。でも、ひとつの分かれ道があります。2年後、3年後、4年後、10年後、20年後みたいな感じで分かれていくんですが、そこを先生がちゃんと見極めて、子どもの欲求がどうであるか。子どもの心がどこに動いてるかどうか。最終的には音楽家、愛好家になってほしい。音楽嫌いになってもらっちゃ困りますから。
由結:嫌いになってしまう子どももいるということですか。
中澤:いますよね。もう嫌いって。お母さんの夢を託されただけで、嫌いってなっちゃうこともあるんですよ。だからそこは望まないところですね。
由結:そうなんですね。もったいないことですね。
中澤:そうですね。それから、やっぱりプロフェッショナルになるには、やっぱりそのアスリート的な部分もあるので、運動機能とか、それとか努力して、同じことを何回もできる。それも才能のうちなんですよね。本当に楽しめる子っていうのは、もう神様からもらっちゃったみたいに、もう好きで好きでしょうがない。もうお母様が「やりなさい」って言う前に、もう起きたらヴァイオリン弾いてるし、寝る前もヴァイオリン弾いてて、好きっていう子も本当にたまにはいるんですよ。でも、そういった子がコンクールに入賞するかっていったらそうじゃないんですよ。
由結:そういうものなのですね!
中澤:そう。好きなように弾かせてるから好きなんですよ。それを好きなままそのテクニカルな部分まで突き詰め過ぎないようにいけたら本当はいいんでしょうけど、そこはすごく難しくて。
由結:どの選択肢でいくかですね。
中澤:そうなんです。でもこう算数のように教えなきゃいけない部分、楽譜の部分とか、そういう部分もすごくあって、それからアスリートのように、ここまでに至るためには20回、30回、同じところ弾きなさいねみたいな。ただいわゆる練習が苦手な子っているんですよ。同じことしたくない子っていうのは、いろんなところに興味があります。ですから、「シンプルなドレミファソラシドばかり弾いちゃいられない」っていう子もいるわけです。
由結:やはりそれぞれの個性もありますものね。
中澤:そうそう。だから、音楽は好きなんだけど、もしかしたらそういう子は“職業にするには向いてない”のかもしれません。そういうところを母親がちゃんと選択できるかっていうと、そうではなくて、もうとにかくみんな一生懸命になりすぎちゃうわけですよね。私も母親になってわかったことなんですけれども、うちの息子も、確か音楽は好きらしかったんですが、「とにかく人から言われてなにかをするのは嫌」と、全くお稽古できない子どもだったんです。でも今は大人になり、本当にいい仕事をする息子になりまして、改めて「あのとき無理強いしなくてよかったなと。彼は、今、ヴァイオリンを、音楽を広めるほうに進みました。それから、楽器もストラディヴァリウスを世界中から集めて、エキシビションを開いたりする子どもになりまして、やっぱり音楽を一緒にすることになりましたね。
由結:お母さまと同じ方向を向いていらっしゃるのですね。
中澤:そうですね。だから何十年後かに、親子で音楽を一緒に語り合えることになったら、私の役目は成功だなと。なにもプロフェッショナルなだけじゃないですよね。
由結:そうですね。こういったメッセージを世のお母様方が共有したら、音楽の教育を受けられているお子様方も伸び伸びとより成長できそうですね。
中澤:だと思います。もちろん、教え子の中には、国際コンクールで1位、2位も出しましたけれども、それは本当に稀なケースです。
由結:そうなんですね。日本人のヴァイオリニストの方と、世界で活躍するヴァイオリニストの方の違いはあるのでしょうか。
中澤:そうですね。やっぱりレールを敷くのは日本人は上手なので、何歳までにこの曲弾いて、何歳まではこの曲弾いてっていう、カリキュラムの通りにやってくわけですよね。でもそこから外れた子は駄目みたいになっていっちゃう部分があって、でも本当に見事に小さい頃はすごいところまでいくんです。「もうここで演奏家っていってもいいじゃないのっていうぐらいに、10代でなっちゃうわけです。ときにはもう10代の最初のほうになってしまう。でも、そこに伸びしろはもうなくて、それで精神的にはまだ子どもなのに、大人の曲を弾いちゃうので、大人になってやっとその精神性がわかったときに、子どもの音楽がついてしまうみたいな、すごくアンバランスになってしまうんです。やっぱり学ぶ楽しみとか、わかったことの楽しみが、大人になったときに少なくなってしまう。海外の親は子どもの成長に任せるのがとても上手なんですよね。会ったときに、「日本じゃこの年だったらあんな曲弾いてないよねみたいな子が、次会ってみるとヴァイオリニストにちゃんとなってたりして、「あれ?いつ上手になっちゃったの?っていう、のびのびと弾いていて。
由結:なるほど。中澤さんのおっしゃっていた五感でいろんなこと感じたり…そういう経験の差でしょうか。
中澤:そう。やっぱり遊ぶこと。子どもの時じゃなきゃできないことを、ちゃんと時間があってできてる。でも日本はもう学校も拘束時間長い上に、学校から帰ってきて塾に行って、夕飯は電車に乗ってるときにおにぎり食べて、帰ってきて寝る前の1時間ヴァイオリン弾いて…とか。もうそれではとてもじゃないけど、夢見てる時間がないですものね。
由結:そうですよね。遊んだり、恋したり、情緒的な時間でないんですね。
中澤:そう。それから夏休みと休みも全然、休暇システムが日本はないから、向こうは1カ月、平気で休んでしまって、都会ではなくて森に行ったり、海に行ったりして、思う存分遊びますでしょう。そこにやっぱり創造性が働くんですよね。
由結:とても大事ですよね。これは皆さんにぜひシェアしていただきたい。
中澤:本当に。とても大切です。遊ぶときには遊べる子どもにしてあげましょう。
由結:そうですね。すばらしい教育論…!中澤さんには3週にわたり、大切なお話を伺わせて頂き、とても勉強になりました。
中澤:ありがとうございました。
由結:ありがとうございました。
中澤きみ子さんのプロフィール |
鈴木鎮一、海野義雄の各氏に師事。新潟大学卒業後、ザルツブルク、モーツァルテウム音楽院にてL・デ・バルビエリ氏に師事し、同音学院を最優秀で修了する。同音楽院コンクール第1位。その後、ロンドンを始めヨーロッパ各地、アメリカ、中国、メキシコなどでリサイタル、コンチェルトなどのソロおよび室内楽の活動を始める。 1992年、中国北京文化庁の招聘により、日中国交20周年記念行事に参加。北京中央楽団とベートーヴェンのコンチェルトを共演。 1999年にはノーベル賞受賞で著名なドイツ・フンボルト財団の招聘により、ボンのベートーヴェンホール他、各地でリサイタルを開催し、絶賛された。 1991年よりウィーンの仲間たちと「アンサンブル・ウィーン東京」を結成。内外で高い評価を受け、さらに1995年には、ベルリン・フィルの首席奏者を中心とした「インターナショナル・ソロイスツ・カルテット」のメンバーとして、オーストリア、ドイツ、ポルトガルなどの音楽祭に出演するなど、ヨーロッパ各地で活躍している。 略歴 |