国広ジョージさん 建築家 国士舘大学教授「一度きりの人生 夢に向かって進め」
銀座ロイヤルサロン1週目
目次
アメリカ在住33年・日系3世
由結:さあ、それでは本日の素敵なゲストをご紹介いたします。建築家、国士舘大学教授の国広ジョージ先生です。よろしくお願いいたします。
国広:よろしくお願いいたします。
由結:さて、本日もユウキアユミワールド アカデミー会長の稲井英人さんと共にお送りしたいと思います。よろしくお願いいたします。
稲井:はい。よろしくお願いします。
由結:国広先生、本日はお忙しい中ありがとうございます。
国広:今日はお呼びいただいてありがとうございます。ワクワクしております。
由結:早速ですが、国広先生は東京生まれでアメリカ在住33年、日系3世という二つの文化を持っていらっしゃる建築家でいらっしゃいます。お父様がカリフォルニア州生まれの日系2世でいらっしゃるのですね。
国広:はい、そうです。明治末期に祖父母が若い頃、当時のアメリカやブラジルへの移民団の一員として渡米して、二人は現地で出会って結婚しました。そしてカリフォルニアで農業に携わり、その後サンフランシスコ郊外のオークランド市で花屋を営んでいたそうです。父フレッド国広は、1917年(大正6年)にこの地で長男として生まれました。国広一家は父が5歳になるまでアメリカに住んでいましたが、その後、両親と私の叔母となる長女と四人で日本に移住して来るのですね。ちょうどその頃、東京では田園調布が開発されたばかりで、国広一家はこのイギリスの田園都市をモデルに開発されたコミュニティに住宅を購入し、東京に住み始めました。元々、祖父は大分出身、祖母は鳥取出身で、農業のために海外に渡った人たちでの典型で、再上陸後に東京人となり、都会人になっていったというのが経緯です。
稲井:お父様、お母様、お祖父様、お祖母様から昔の話はお聞きになりましたか?
国広:私が小さいころに国広の祖父母が離婚したものですから、祖父の印象はあまり記憶にありませんが、祖母は東京に住んでいたので一緒に過ごした思い出は記憶に残っています。それ以上に、父がコレクターで、特に写真マニアで、とにかく、なんでも写真に撮ってアルバムに収蔵して、その上いろいろな思い出の品を大切に保管していました。明治時代に祖母の故郷で撮られた写真のアルバム、アメリカ移民時代の写真、そして両親の結婚後、私の生誕などたくさんの画像や映像などを残してくれました。
稲井:へえ。そのお写真は、今も残ってるんですか?!
国広:はい。現在、私の子供たちへ継承していくために、これらの写真や映画をデータ化しています。ですから、ちょうど最近は、ゆっくりと思い出となる品の数々を見ながら自分の父と祖父母の生活を振り返って見ています。
稲井:いやーいいですね。
国広先生の生い立ち
由結:国広先生はアメリカにいらした頃…どんな幼少期をお過ごしだったのですか?
国広:私は昭和26年に東京都文京区で生まれました。父はそのころアメリカの進駐軍に勤めていました。父は、5歳で日本に上陸してからずっと日本で暮らしていましたから、第二次世界大戦が終わった時点では、アメリカにとって彼は一種の裏切り者とされたのですね。しかし、アメリカに憧れていた父は、進駐軍に民間人として勤めます。目的は、一度失ってしまったアメリカ市民権を再取得することでした。そして、10年間アメリカ軍基地で働いた後に、上司から推薦書を書いてもらうことができたのです。これを活用して、ようやく父フレッドは再びアメリカ人となることができたのです。私が5歳になった夏休みに、母と私もアメリカ市民権を取得することになり、初めてアメリカのロスアンゼルスに上陸します。そして、私は日系3世となって帰国しました。余談ですが、当時の渡航は羽田空港を出発して、米軍基地があったウエーク島の飛行場で給油し、ハワイにも寄って、ようやくロスアンゼルス空港に到着するというとても長い空の旅でした。この旅行は、たぶん24時間はかかったのではないでしょうか?ちなみに1ドルは360円の時代であり、一般の人たちがビザを取って渡米するのも大変な時代でした。こうしてアメリカ人となった私は、小学2年生の時に父が商社マンとして駐在の辞令を受けたことで、再びアメリカに渡りミシガン州デトロイト市郊外に住むことになりました。デトロイトには1年ほどしか住んでいませんでしたが、私はこの地で英語を覚えました。
その後、再び東京に戻り、休学していた森村学園初等科に戻ります。この小学校は、慶應義塾志望の子供たちが多く在学する学校で、私もその一人でした。実は私は慶応義塾コンプレックスなのです。小学校は慶応幼稚舎をめざして、当時は珍しかった幼稚園生向けの進学塾に入り幼稚舎を目指しました。私は子供心で、絶対に慶應幼稚舎に合格すると確信していました。何故ならば、父も慶応、叔父二人が慶応で有名なスポーツマン、その上祖父の妹が福沢諭吉の孫と結婚していましたから、多分「楽勝」気分だったのでしょう!それこそ「慶應義塾はコネの学校的発想ですね(笑)
由結:そう思いますよね。それでどうなったんですか。
国広:そして、その発想が見事に外れました!
稲井:へえーっ。なぜ不合格だったのでしょう??
国広:私が思うに、多分面接の時に席に座っていなかった。どうも受験会場を走り回っていたらしいのです!
稲井:元気が良すぎたのですね。
国広:今でも慶應コンプレックスということを引きずっているということは、当時、ショックだったと思いますね。その後、私は慶応への再挑戦で評判が高い森村学園初等科に入り、再び慶應義塾中等科をめざしました。ところが、6年生のときに、家族がアメリカに行くことが決まり、結局中学受験もせずに渡米することになってしまいます。当時、母は「受験しなくていいのよ。アメリカ行くのだから
と軽く言われて、唖然としたことを記憶しています。そして、1964年5月31日にアメリカに移住することになります。その後、33年間をアメリカで暮らしました。
由結:なるほど。
国広先生が持っていた夢
国広:私にとって、一生のトラウマですね。当時は建築とは無縁で、私は商社マンになりたかったのです。それは漠然としていましたが。
稲井:へえーっ。
国広:もう一つは、幼少から電車の運転士になりたかったっていう大きな夢があって、その中でももっとも巨大な夢は、も中央線の電車の運転手(笑)
稲井:巨大な夢ですね(笑)
由結:中央線ですか(笑)
国広:中央線が重要。山手線じゃない。中央線がいい。山手線って東京都内をぐるぐると廻っているイメージがあって、同じ駅を何度も通るという先入観を持っていました。でも、祖父が持っていた国分寺のウィークエンドハウスで、現在では東京都の所有となっている殿ケ谷戸公園に行くのに、中央線に乗って行きました。このイメージは一直線だったので、同じ駅には二度止まらないという印象があったのですね。正確には往復で2回停車するのは当たり前でしたが、どうも私は、その点鈍かったのでしょうね!中央線派一本でした(笑)
由結:ユニークで素敵な夢ですね(笑)
国広:しかし、アメリカに行く時に飛行機に乗ってからは、飛行機のパイロットになりたいと考え始めます。乗り物運転手職がレベルアップしてしまいました(笑)
引き続き乗り物職の進化が続きます。乗り物フェチの話が長くなりましたが、これが間接的に建築の世界へ進むきっかけとなります。高校3年だった1969年に、アメリカの宇宙飛行士のニール・アームストロングが月着陸に成功します。再度のレベルアップで、このときに宇宙飛行士になろうと思って、大学進学は、理系の宇宙工学を進路に選びました。幼少からの夢をキャリアに結びつけようとしてんですね。振り返ると、小学校では中学を受験するためにいろいろ勉強していたのですけども、その中でも文系科目は得意でしたが、数学はあまり得意じゃなかった。でも、国語など文系科目はアメリカに移住すると役にたつ分野ではありませんよね。一方で、日本で習った数学は万国共通の数字を使った科目ですから、その上、アメリカでは中学一年の数学は日本の小学校4年生ぐらいのレベルなのです。アメリカの義務教育では、簡単な数字でわかりやすく教えるという手法を用いていると思います。日本は、その逆で最初から難しくしていって、生徒が勉強嫌いになって、授業中みんな寝ている…と(笑)私は、日本では不得意だった数学が、アメリカではこれをきっかけに中学、高校とクラス上位の成績を収め、自分も数学ができる頭を持っていると錯覚していました。(笑)ところが、高校3年のときに、突然それまで全く見たことのないような数学の内容が出てきて、理解ができずクラスの上位グループから最下位グループに脱落してしまいます。これがきっかけで、宇宙工学を諦めて、絵を描くのが好きだった少年時代を思い出し、持っていると錯覚していた数学の能力の両方を活用できる、環境デザイン学部建築学科に入ったというのが、私の10代後半でした。
由結:10代だけでたくさんのご経験をされているのですね。
稲井:いや~聞き入ってしまいました。国広先生はやはり感性が豊かなんですね。
国広:振り返ってみると、私は動いているものを操縦する職に就きたかったようで、でも最終的に動かないものを設計しているんですよね!(笑)
稲井:動と静!面白いですね。
由結:お話は尽きないんですけれども、また次週もご登場いただけるということですので、ぜひこのお話の続きを伺っていきたいと思います。本日はどうもありがとうございました。
国広:ありがとうございました。
稲井:ありがとうございました。
銀座ロイヤルサロン2週目
由結:二週目ご登場いただいてるのですけれども、先週も…。
稲井:ええ。話が宇宙まで行きました(笑)中央線から宇宙です。素晴らしい。
国広先生の母方は三菱財閥本家
由結:さて、本日は「岩崎弥太郎の血を汲む建築家から見た日本」というテーマで伺っていきたいと思います。
稲井:素晴らしいお家柄ですね。
由結:国広先生の母方が三菱財閥本家で、お母様が創設者の岩崎弥太郎の曾孫にあたられるということなのですね。
稲井:日本の経済の基盤を作った岩崎家ですから。
由結:そうです。国広先生はご自身の家系をどのように捉えていらっしゃいますか。
国広:私は建築家であり、建築史家でもあります。として、大学でも教員として、30年近く建築教育に関わっています。日本に戻り、大学で教鞭をとりながら、東京大学の博士課程に在籍していました。私の専攻は近代建築史でした。またアメリカ時代にも歴史に興味がありました。建築は理系の分野と捉えられがちですが、私自身はどちらかというと芸術系、文系と言えるのかもしれません。そういう意味では自分の家系が教科書などに出てくるので、ずっと自分の環境では「歴史は生きて存在しているのだと感じていました。
もう何十年も前のことですが、私が覚えているのは中学時代、夏休みにアメリカから帰ってくる度に母方の祖母の家に滞在していました。やはり幼少のころの記憶には、この屋敷で生まれ、家には住み込みの女中さんたち、庭師一家、「詰所」で働く年配の経理係のおじさんたち、そして運転手さんがいたことなどを覚えています。私が生まれる以前には、もっと多くの使用人の方々が働いていたと聞いています。それは、私の祖父が三菱財閥の最後の本家ですから、初代岩崎弥太郎…二代目の弟弥之助…3代目長男の久弥、4代目は弥之助の長男小弥太と続きました。そして、5代目社長の座を約束されていた祖父でしたが、第二次世界大戦の終戦を迎え財閥が解体されました。その直後に小弥太社長が亡くなられたので、祖父彦弥太は「悲劇の三菱当主」と言われていたそうです。
分家の当主で、最後の三菱財閥の社長だった小弥太さんは、現在の国際文化会館のある土地にあった屋敷に住まわれていました。この屋敷もそうだと思いますが、祖父の家も進駐軍の将校の宿舎として接収されました。このように財閥解体で曽祖父、祖父、そして親族は大変苦労したようで、土地もずいぶん手放さなければならない状況に追いやられたようです。それでも、サラブレッドを飼育する牧場や小岩井農場、一族の私有墓地などがのこり、私も幼少時代からこれらの施設を訪れています。その後、進駐軍が撤退して、祖父は三菱地所の取締役に返り咲きました。当時の記憶では、祖父の出勤と帰宅時に全員で巨大なベンツに乗った祖父を見送り、出迎えることが日課でした。じつは、こういう話題を持ち出す度に自分の成り立ちを自慢しているように聞こえるのではないかと自己意識過剰となりがちなのですが、正直言って「これが歴史を生きるということなんだなぁ」と客観的に捉えながら解説しているんです。私は、重要文化財に指定されている湯島の岩崎久弥邸の近隣にある祖父の屋敷内で生まれました。幼少時代には、塀の外で遊ぶことを禁じられていて、隣にあった旧馬場の広い敷地内で遊んでいました。そこには使用人家族たちの家があり、また畑と鬱蒼と茂った樹木が立ち並んでいました。もうひとつ思い出しましたが、正月になると、それは三菱グループ系の社長さんたちだったんでしょうけれど、祖父に会いに立派な大人たちが新年の挨拶に来られるのを子供心で見ていました。祖父は本家の家長でしたからね。やはり、いま思うとそういうのを見ていた自分が歴史を生きてきたと、実感しています。
稲井:なるほど。ただ者じゃないなというのは、感じていたわけですね。
国広:いやいや、あくまでも立派な祖父だなぁと感心して見ていただけですよ。幼少時代はこんな環境で生まれ育ちましたが、私は何か恩恵を授かったということを考えると何もないですね(笑)ただ、こういう環境を目撃、そして体験することができたっていうことは自分の宝だと思っています。
由結:そうですよね。
稲井:何か役割、意味がないとそういう血筋にお生まれになりませんからね。お金で買えるものでもないので。
由結:そうですね。おうちや人々の佇まい…環境というものが、きっと今のお仕事にも当然結びついてきているのかなと思うのですが、その点はいかがですか。
国広:そうですね。建築家の視点からいえば、豊かな空間。普通のいわゆる大きいとか、そういうような意味でいうと、それはそれで大きかったけど、実際は祖父母の家をアメリカに持っていったとしたら、大した大きさじゃないわけです。アメリカの中産階級の家でも祖母のような家より大きな面積の家がたくさんありますからね。
でも、いま自分が大切に思っているのが日本の伝統建築であったり、20世紀に建てられた文化遺産として価値がある近代建築などの歴史的建造物の保存と再生で、建築家の立場からいろいろなかたちで啓蒙活動を行なっています。
つまり、自分が体験した歴史というものを背景に、自ら斬新なものを創造することを設計のプロセスに用いでいます。やはり過去というものを大切にしながら、新しい文化っていうものを作っていくことの意義を理解してもらいたいという願望があるんですね。例えば、日本の建築家たちと日本の環境を大切にしながら、未来に引っ張っていくというような運動、そこに私の役目があるんじゃないかな、と。
アメリカと日本という二つの文化において、建築に取り組むときに心掛けていること
稲井:ですよね。アメリカの感性と日本の感性で建築に取り組むときに心掛けていることもしくは、ご自分の中やお血筋から湧き上がってくるものはありますか。
国広:ありますね。やっぱり二つの文化を持っているとご紹介頂きましたが、私もその部分は自負していて誇りに思っています。日本の文化も大好きだし、アメリカの学生時代から日本に興味があっていろいろと勉強しましたね。日本が好きで日本ばっかり見ていたわけですね。当時は、いつかは日本に住みたいと思い続けていました。この気持ちを皆さんの立場で考えると、例えば海外旅行に出かけたら、異国で和食が懐かしくなるようなことがあると思います。海外でも外国人の人たちが日本の文化を愛するように、やっぱり海外に通ずる普遍的な何かが日本の文化にあると思いますね。自分では意識してないのかもしれませんけど、それをうまく自分の中で消化して自分の設計に何らかの形で現れてくるのですね。無意識でやっているようで意識してやっています。でもそればっかり考えていると進化できませんから、やっぱり自分の思考を自由に持ってゆきながら発想を促すことを心がけています。簡単に言うと日本文化をサプリとして飲んでいるって感じですね。そうやっているうちに、何らかのインスピレーションが自然に湧き出てくるようなことなんじゃないかなと思いますね。
建築家であり建築活動家である国広先生
由結:なるほど。建築家であり、また建築活動家とも名乗ってらっしゃるんですが、それはなぜですか。
国広:建築家というのは、世に著名な建築家たちが大勢いて、そんな仲間もたくさんでいるのですけども、先週もお話ししましたが、僕は元々建築家になりたかった訳ではなく、ちょっと違うことを夢見ていたんですね。建築家になって、仲間たちと比べてあまり必死に建築を設計して自己表現しよう、というこだわりがないみたいです。じつは、大学時代に建築の設計にはまってしまって、結果としてずっとこの道を歩んできてしまったのが現状なんです(笑)
一方で、アメリカ生活が長かったせいか、人種差別のように世の中が平等じゃない社会とかに対して、それを変えたいという気持ちが若い頃から自分の中にありました。建築関連の例を挙げると、例えば階級の差があって再開発する地区住民たちが強制立ち退きを強いられる。そして、その土地に富裕層向けマンションが建つ、といった事例が日常茶飯事的にあって、元からそこ住んでいた人たちにとっては、住まいと暮らしを略奪されるという悲劇アメリカの都市開発には多いんです。そのような場合に、建築家としてその立ち退き反対運動に参加して、プロとして弱者の立場から、政府に代案を提案するという社会活動的なまちづくり運動を学生時代にやっていました。それが今の活動につながっていると思います。
文化遺産保存・再生に関する啓蒙活動
現在では、その思考の延長で、先ほども触れましたが文化遺産保存・再生に関する啓蒙活動に参加しています。日本中、世界中の市民たちが日頃気が付かない価値ある古い建物が壊されている。それは、文化遺産に対する一般市民の意識レベルがあまり高くないことも要因となりますが、それは文化の破壊という悲劇につながる大きな社会問題だと考えています。
DOCOMOMOという近代建築運動の文化遺産を保全、記録していこうという目的で設立された国際組織があるんですが、私は2021年夏に東京で開催されるDOCOMOMO国際大会の実行委員として参加しています。これもやはり建築的な社会活動だと思うんですね。ですから、そういうところに自分の情熱を注ぐということと、同時にやはり設計を通して新しい環境づくりに参画するという、建築活動家と建築家として両立する人生を歩んでゆきたいと日々精進しています。
由結:社会的に非常に意義があるご活動ですね。
稲井:建てて作って売るだけではない。水面下に人の交流、心がありますね。
“建てない建築家”としての社会活動
国広:そして、社会活動としてもう一つの取り組みは、作るというよりか、作ったあとに
排出されたごみをテーマに建築家として環境問題に取り組んでいます。私が出会った素晴らしいシステムとマッドサイエンティストのチームとともに日本中のごみ、世界中のごみを再生するという、大きな挑戦に取り組んでいます。このシステムは「亜臨界水処理システム」というちょっと難しい工学的な理論ですが、要するに、ゴミと水をタンクに入れ、高圧をかけて摂氏200度に沸騰させることによって、ゴミは汚泥化します。
これを使ってメタンガスを発酵させ、メタンガス発電機で電力を発電する。この電力を売電することで継続的に収入を確保でき、汚泥は強力な農業肥料として農業の活性化にも繋があるという、ウィンウィンの素晴らしいシステムなんです。このシステムをアジアやアフリカ各地の低所得コミュニティーに供給することで、環境問題の解決と社会の格差の是正にもつながる画期的なプロジェクトです。
現在、日本発のプロジェクトは国内で始まっているのですが、私はこれを広くアジア、アフリカなどを対象にグローバル啓蒙活動として取り組み始めました。建築家として建物を建ててきましたが、これからの人生ではその建築行為で排出されたゴミを含めた廃棄物を対象に、「建てない建築家」としても社会活動に貢献して行きたいと考えています。
稲井:本当に幅広い活動をされていますね。
由結:世の中に必要なご活動、ぜひ多くの方に知っていただきたいと思います。
稲井:そうですね。
国広:これらの社会活動にご興味ある方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただければ詳しい内容をご説明させて頂きます。
由結:はい。それでは、国広ジョージ先生のこの情報については、“国広ジョージ”で検索すれば出てきますので、皆様チェックなさってください。それでは、本日は素敵なお話の数々、ありがとうございました。
国広:ありがとうございました。
稲井:ありがとうございました。
国広ジョージさんのプロフィール |
国士舘大学教授 清華大学(中国)客員教授 明治大学特別招聘教授 京都美術工芸大学客員教授 1951年東京生まれの日系三世。父は、カリフォルニア州生まれの日系二世。母方では、三菱財閥本家で創設者岩崎彌太郎の玄孫。1964年に渡米。サンフランシスコで中高に通う。1974年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業。1976年には、名門ハーバード大学Graduate School of Designを修了。 同大学では、近代建築の巨匠ル・コルビジェの門弟であるジョセフ・ザレフレスキー教授などに師事する。2000年東京大学大学院博士課程単位取得退学。 ハーバード大学修了後、日本で就職をめざしていたが、実現せず。サンフランシスコ、ロサンゼルスの設計事務所で修行した後、1982年にロスアンゼルスにて、George Kunihiro Architectを設立し、国 際的な設計活動を始める。その後、1987年にニューヨークに拠点を移し、日本とアメリカに数々のプ ロジェクトを手がける。一方で、建築家安藤忠雄とともにイエール大学、コロンビア大学、ハーバード大学などの名門校で教鞭を執り、さらにニュージャージー工科大学、キリルメソディウス大学(マケドニ ア)聖ユセフ大学(マカオ)などから招聘を受け、次世代の建築家育成にも貢献してきた。 その他、これまで世界70ヶ国あまりを訪問し、各地で建築文化に関する講演を行うと共に、国内外で国際コンペ審査員を務める。2011-2012年には、アジア地域における建築家の上部組織であるアジア建築家評議会(ARCASIA)会長を務め、アジアにおける住環境、都市空間の設計に寄与する建築界のリーダーシップを執る。現在、「衣食住文化」を包括的にプロデュースするティーライフ環境ラボを共同主宰。アメリカ建築家協会(AIA)、日本建築家協会(JIA)フェロー。 メディア出演 【自主制作委託プログラム】 著書 SNS 【受賞】 【主な作品】 【略歴】 【資格など】 |