浜野安宏さん 株式会社浜野総合研究所 代表取締役社長 一般財団法人ビーチ&フィールド保護協会 理事長
銀座ロイヤルサロン1週目
目次
自由無限に生きる
由結:さあ、それでは、本日の素敵なゲストをご紹介いたします。株式会社浜野総合研究所 代表取締役社長、一般財団法人ビーチ&フィールド保護協会理事長でいらっしゃいます、浜野安宏先生です。よろしくお願いいたします。
浜野:はい。よろしくお願いします。
由結:浜野先生はライフスタイル・プロデューサー、商環境プロデューサーでいらっしゃり、これまでに、FROM-1st、東急ハンズ、QFRONT、AOビル、幕張メッセ一帯、横浜ランドマーク一帯など多数を総合プロデュースをされ、映画監督もなさっていらっしゃいます。
浜野先生の素晴らしい発想は、どのようにして湧いてきたのかをお聞きしていきたいと思っております。
まず、浜野先生は『自由無限』という作品を手掛けていらっしゃいます。ANKOW STYLEを作り上げた全行動を語る作品とのことですが、浜野先生にとっての“自由”とは何なのかについて教えて頂けますか。
浜野:自由というのは、私が自由に生きるということ。一生、自由を一番大事にしてきたわけですね。自由を追求していくと、自由でありたいと願えば願うほど、孤独がつきまとう。奥さんをもらうと奥さんに縛られますし、子どもができると子どもに縛られますし、会社作ると会社の幹部に縛られますよね。
それで結局、株主総会なんかで思う通りいかず、株式会社を解体して、自由に好きなことをやりだした。例えばTSUTAYAの増田くんとかね。彼も僕の『ファッション化社会』って本ですごく影響を受けた一人ですけど、みんな自由っていうものを求めて、あんなに大きく株やなんかで財を成した人でも、やっぱり自由を求めて株式会社を解体することもあるぐらいね、自由っていうのは大事なことなんですね。
自由でないと発想できないことがいっぱいある。やっぱり自分も人生を振り返ると、一番人のために気を使ってたころが長かったから。この僕でもですよ(笑)。
由結:なるほど…自由でないと発想できない!
浜野:だから、今この年、80なった途端にもう自由で無限に生きるぞという決意を固めたような映画や本だっていうのを今作ろうとしてるわけですね。
由結:そうなんですか。
浜野:ええ。今はもう本当に、今この年になって、完全に自由になれそうな気がすると。
由結:そういうものなのですね。これまで様々な自由を追求していらしたようなイメージがありますが。
ワイオミング州の家で30年間夏を過ごす
浜野:その通り、やってきたんですね。例えばアメリカのロッキー山脈のほうのワイオミング州にすばらしい自然を見つけて、グランドティトンナショナルパークっていうところに家を建てた。その家を建てて、手作りのログハウスを、自分で作ったんじゃないんだけど作って、30年夏を過ごしてきたわけです。一見僕が80に見えないのは、このやっぱり30年間、毎夏、ここへ夏を過ごしたことにあると思います。久しぶりに日本で過ごしてみて、こんな過酷なところで生活してたら、やっぱり年取るよなと。やっぱり最近、あの30年って自分にすごいものを与えたんじゃないかなと思ってますね。
由結:その土地に家を持とうと思ったきっかけみたいなところを教えていただけますか。
浜野:ええ。それはね、もう非常に自分もやっぱり会社がどんどん大きくなって、幹部も育ってきて、だんだん体中に泥水が貯まったような感覚があったんです。会議してても眠くなって、もっとやりたいことがいっぱい貯まってきて、ところが会社って枠組みの中でやらざるを得ないと。
「ちょっと一回考えさせてくれ」
ってことで、サバティカルという、3カ月間の休みを取って自分の会社を休んだ。幹部も理解があったんですよ。副社長が今だったらやれそうだから行ってくださいと。それで、ランクル1台に家族4人で荷物いっぱい詰めて、ずっとキャンプ旅行でアメリカ横断したわけですよ。
そのとき、パタゴニアっていうアウトドアの有名なメーカー。イヴォン・シュイナードがまだ服の作り方もわからない時代からの友だちなんですけど、彼がちょうどこのグランドティトンのふもとに素晴らしい家を持ってたんで、そこに居候してたのが一番長かった。
で、ニューヨークまでたどり着いて、ロサンゼルスからニューヨークへ、もう危険な旅行をして、女房は2回ぐらい、ストレスリアクションって病気にかかって、下痢と嘔吐をくり返して、もう帰りたいって言い出したんだけど、それでもまあ向こうへたどり着いて、子どもたちみんなに「どこが一番よかった?」と聞いたら、「イヴォンさんところ」って、つまり、イヴォン・シュイナードの持ってる別荘で居候してたときが一番幸せだったと。
じゃあ「そこの隣に土地買うよ」っていって、もうすぐ僕は日本へ帰って、家族を置いて、もう一回戻った。それで探したらちょうど隣のものすごいいい土地があったんです。前はもうグランドティトンが見えてね。イヴォンが見に来て、「ここ俺のところよりはるかにいいから、もう買え、買え」って言う。また当時ね、まだ6200坪の土地がなんぼで買えたと思います?父親が亡くなったすぐあとだったんですけど、もう残したキャッシュが1000万しかなかったんですよね。それを大事に使いたいと。そのお金で買えた。全くぴったり。7
5000ドルでそのまあまあ当時のレートで1000万ぐらいで買えた6200坪ですね。前は国立公園。飛行場まで10分というところでした。
由結:素晴らしいご縁ですね!
浜野:そうそう。そして2年ちょっと前に予感がしたので売ったんですね。そのお金で今食ってるところあるんですけど、まあだからこれ父親のおかげだなというのも思ってるけどね。
そのすぐあとでコロナパンデミックが起こったわけです。そしてあの土地が値下がりしたりしたらしいんですけど、もう本当についてるなと。本当に自由にそこまでいけたことがすごくいいことですけど、やっぱり底辺に父親の愛というか、僕は本当に父親に対してリスペクトしてるところが多くて、今でも感じますよね。
総合プロデュースを行なった東急ハンズロゴの由来と修験道者であった父
由結:お父様のお導きですね。なんでもお父様が修験道者でいらしたとか。
浜野:そうそう。天台宗の修験道の行者で、不動明王という神様をとても尊敬してて、不動さんのような生き方みたいのを俺に教えた。それでね、究極、その父親の教えというのは今でも生きてて、あなたがおっしゃった東急ハンズって名前になって残ってる。東急ハンズっていうのは、お釈迦様の手なんですよ。
由結:まあ、あの有名な手のマークのことですね。
浜野:ええ。“世尊拈華”“拈華微笑”。“拈”っていうのは手へんに占めると書くんですね。そおっと持つという意味ですよ。華をそっと持って、にっこり笑う。“五百羅漢”ってご存知ですね。お釈迦様の弟子が500人いて、それでにっこり笑って華を指し示したね。そしたら摩訶迦葉という弟子がわかりましたと言った。じゃあお前次跡継ぎしろというのを選んだ瞬間なんです。だから、あの墓参りしても、お花まつりにしても、お花が付きまとうのは、その花なんですよ。
つまり何かって父親が僕に言ったことは、花がそこで咲いてるとき、花でしかないと。お釈迦様がある強い哲学的な意思を持って、そっと持って笑って示したが何かっていうと、花の中に三千世界の全てがあるということを言ったわけですね。だから手がなかったら花は花でしかないだろう。その手で持って笑ったことがちゃんと弟子を育てたんだ。だから手で物を、手で初めて物が作られたんだ。花は花以上のものに昇華したんだというのが父親の僕の教えで、“クリエイティブストア東急ハンズ”っていうのが生まれた瞬間なんです。
由結:感動しました!そういうことだったんですね。
浜野:それをね、サラリーマンの東急の人たちはあんまり大きく言いたくないのはね、お釈迦さんが出てくると仏教的になるから、と。だけど最初に僕が提案したときはそれだったわけですね。
大著“自由無限”ANKOW STYLEの軌跡
由結:そして、それは浜野先生のお父様からつながっているということなんですね。
本当に貴重なお話です。浜野先生の自由をテーマにしたこの『自由無限』という作品ですが、どんな作品になりましたか。
浜野:本は600ページほどの大書になったけど、もうこの京都錦堀川で生まれて、世界中を旅して、こういう人間が育ちましたよと。その最後はANKOW STYLEって。“浜野アンコウ”って僕言われてるんで、ANKOW STYLEっていうスタイルをちょっと編み出すまでの、長い旅なんですね。
京都時代、やっぱり錦の堀川の狭いところですけど、生まれた場所のすぐそばに本能小学校ってあって、それは織田信長が死んだところですね。それからちょっと北へ行くと、城巽中学って、城巽の、今はない、どっちもないんで、小学校もどっちもないんですけど、その城巽の中学校、その城巽ってことは二条城のすぐ横にある中学校。で、二条城っていうのは、実はあれは城ではなくて、あれは徳川家康が神泉苑っていうお寺からぶんどった。で、自分の離宮にしたわけです。あそこはでっかい神泉苑の大きな湖のような池だった。その池を外堀にして、あの離宮を築いたのが家康ですね。
だから元々その神泉苑がある京都は、山城湖と言われる湖だったんです。比叡山と、比叡山の向こう側の琵琶湖と山城湖は同じ水面を保つ湖だった。真ん中にあるのが東山で、ずっと北山、西山を取り囲んで、京都の、今それが水がスーッと全部なくなっていって京都盆地が生まれたわけです。その盆地の一番水源が神泉苑なんです。
まあこんな大きな話になるけど、この撮影の旅でさらにそこを深掘りした。これどうしなきゃいけないか。このままほっとけないなと。今ふっとみたらアオコが浮かんでてね、ちょっと手入れ悪いから、僕らが立ちあがろうじゃないかと。京都生まれの文化人たちが今寄り集まって、神泉苑の復興をやろうというところまでいってるんですよ。そしたら仲間も出てきてだからね、映画作りっていうのはね、僕やってね、映画そのものより、映画とは耕すものだって僕呼んでるわけです。
由結:“耕すもの”
幻のイトウが出現―映画“さかなかみ”
浜野:うん。元々どんな企画でどんなものを作られるんですかって予算をつけるっていうのは、非常にこれは産業社会の悪い癖で、やってるうちにもっと素晴らしいものが生まれていくるんですよ。僕に投資するんであって、僕の考えたペーパーに投資すべきじゃないと思う。ペーパーなんかにせくさいですよ。僕をよく見ろと。だからね、僕に投資しなさいと。
何人か投資してくれて、映画が『さかなかみ』っていう、本当にわけのわからない出来なんだけど、新藤兼人さんって、亡くなられた大監督ですけど、その人が、「お前、こんなものね、人に頼るな。お前が作ってお前が演じろ。そうしないとすごい映画はできないよ」と言ってくれて、立ちあがった。
そう言われても何年もできない中で、『さかなかみ』って小説を書いたりいろいろして、ついに作った映画。ものすごくいろんな人が感動してくれて、シャネルの社長だったリシャール・コラスさんがフランス語のナレーション読んでくれたり、だんだん育って行ったわけですね。だからまさに耕されていったわけです。
由結:あの幻のイトウを実際に見られるわけですよね。
浜野:そうそう。幻の…って、そんなもん釣れないからと僕も最初思ってたの。それで、どっかでイトウの養殖したやつを買ってきて、それ人口の池作ってそこで釣れるシーンを撮ろうと思ってたのよ。ところが、いざ撮影してみたらいい場所がどんどん見つかって、いい時間帯もいいシーズンもわかってきて、結局、ラストシーンは私自身が釣り上げた1メートルのイトウが主役になってる。
由結:いや~そんなことがあるんですね!
浜野:もう、レンズの前でチョンッと現れたんですよ。まさにさかなかみでね。ラストのほうでね、父親の言葉で、よく、“山川草木悉皆成仏”という、もう草も山も川も、全部仏さんに変わってあなたに説教するよと言うわけですよね。そういうことで、この映画ももう思わぬ宝物を生んでくれたと思いますね。
由結:素晴らしいですね。この『自由無限』につきましては、ご本が10月の始めに集英社から出る予定ということですね。そして、映画も同時期に発表予定です。ぜひ皆様お楽しみになさってください。そして、『渋谷の男』ももう少し先で公開ということですね。
浜野:そうですね。来年いっぱいかかるでしょうね。
由結:はい。かしこまりました。それでは、先生、来週もどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
浜野:はい。どうもありがとうございました。
銀座ロイヤルサロン2週目
由結:それでは、本日の素敵なゲストをご紹介いたします。株式会社浜野総合研究所 代表取締役社長、一般財団法人ビーチ&フィールド保護協会理事長でいらっしゃいます、浜野安宏先生です。よろしくお願いいたします。
浜野:よろしくお願いします。
由結:2週目ご登場いただいております。先週はお話が面白くてとまらなくなりました。ありがとうございます。2週目のテーマは「浜野安宏先生が考える街づくり」
ということで伺って行きたいと思います。もうこれまでに都市計画をもう様々なところでなさっている浜野先生ですが、日本の街づくりで警鐘を鳴らしたい点はどんなことでしょうか。
浜野:はい。たくさんありますけど、一番今進行してる大きな問題は、経済の自己運動というか、要するに絶対利益を追求していくあまり、法律を変えてでも高い建物建てたいとか、要するに、容積率を稼げればすごくこう自分の土地の値が上がるわけですよね。
だから例えば渋谷の駅前でも、品川の駅前でも、どこでもそうやって容積を上げてきたわけ。それをうまくやった人が巨万の富を得たと思うんですね。そのかげにはやっぱり大事な住処を売らざるを得なかった。お金はくれるからまあいいかと思って売ってきたかもしれないけど、じゃあ本当にそれでよかったかなという場所もあると思うんですね。
だから、私は、絶対変えてはいかんことがあるということをいつも言っていて、それが先週しゃべった、いわゆる京都の元々湖で盆地になった場所。そこで大名や武将たちが栄華を競った場所っていうのがあるわけでしょ。その雰囲気は残していかなあかん。
やっぱり僕はとくに渋谷が好きで、渋谷で長く青春も過ごし、そこで恋人とも会い、駄目な男だったのを初めて男にしてもらったのも渋谷だし。で、わりとこう偉そうに言ってるけど、女の人には気が弱くて、そんなに遊んでたわけじゃないので。初めて男にしてもらって、それで勇気100倍で街飛び出して行ったと。それまでモダンジャズを暗い顔して聞いてた青年だったわけですけど。
由結:まあ、そうでしたか。
浜野:そういった様々なことに出会ったのも渋谷だし、育てられたのも渋谷だから、渋谷の映画を作ろうというふうに思ったわけです。街づくりで、僕はやっぱり一番主張したいのは、その町が元々、京都は湖だったように、渋谷は渋谷川っていう川が一本流れてたことがすごい大きな意味を持ってる。品川にも新宿にもない、独特の駅前を形成していった。それをほかの川のない街と同じように都市計画をやると大失敗するよと僕はずっと言ってるわけ。
新宿で僕が警鐘を鳴らしたのは、新宿の駅から超高層街へ向かって暗い人工地盤を作って、人々をその下を歩かせたんですよね。歩いたら真っ暗な中歩かされるでしょ。それが、それを作ってこんなことをやったら、図面見たときに、こんなことやったらホームレスが寝て大変なことになるって僕が指摘したの、まだ20代の終わりごろですよ。
それで最年少の新宿新都心開発協議会の委員だったんです。そのときに三井不動産の坪井さんっていう専務さんが隣に座ってらして、彼だけが私の言うことをよくわかった。じゃあせめて三井ビルの下だけでも面白くしてくれないかなというので、やらせていただいたのが、三井ビルの下のちょっと広場。55プラザっていうんですけど、それが最初に街の仕事らしい仕事をしたきっかけになるんですけど、それが1軒のブティックからでも街は造れる、と。
1軒の店から都市が変わる
由結:なるほど。1軒のブティックから。
浜野:ええ。だから新宿にまだあんまり人々が中心地と思ってない場所に、もう駄目になってた紳士服屋があるんですけど、その紳士服屋さん、僕メンズウェアの仕事してたから、これタダで僕に貸さないかと。今駄目だからね。もう有名にしてあげるから、少なくとも土地代は倍か3倍にはなるよと。僕がやったらって。大きなことを言って、それでその1軒の店を借りて、1968年の2月ですよ。そこにJアップルという、下が真っ赤で上が紫色のペンキで塗った一軒の店をつくった。1軒の店から都市が変わるという、象徴的なことをやってのけた。
そのときに、“奇装族”って、奇妙な装いの族っていうのを、大イベントをやったわけ。それで駅前で僕演説をしたんです。そのころ、全学連とかいろんなのが騒いでたころですから、「戦争するより花を」「石を投げるより花を投げよう
と。「戦争するよりおしゃれしよう」
というようなことを僕は叫んでたわけですよ。
それでそのとき僕の意見に賛同して、小野明、コシノジュンコ、私の先生の長沢セツさんなどものすごい人が集まってくれて、一緒に行列したんですよね。新宿駅前で高いところ登って演説してたわけ。そのときに僕は全学連の若者何人か知ってたから、「お前、文句言いにこい、こっちへ。で、俺とケンカしろ」
と。ケンカさせて、それでこっちは、そのジェンダーの違う、いわば女性の服なんか着るほうが得意な連中が石持って投げようとしたり、プラカード持って来てやろうとするのを、抱きついていってね、「そんなことより花でも持ちなさい」と言ってね。それ全部新聞に出たわけですよ。
由結:素晴らしい演出ですね。
浜野:新宿は新宿で僕の舞台ではあったわけですね。だからその店1軒からあのその通りがザーッとファッションストリートになっていくわけですよ。それで、伊勢丹の角にちょっとした空き地があった土地があって、その空き地を貸してくれと。伊勢丹で実は僕かなり実績を上げる売り場づくりなんかもやってたんで、貸してやれよと。木で作った舞台みたいなのを作って、そこで“質素革命”というイベントをやったわけです。藍染のムラ染めを着た50人ぐらいの集団が朝からごみ拾いをしてた。
それは、歩行者天国が始まったばっかりのときで、僕がこれ全部止めてやると。それでそこでロックバンドを置いて、いきなり、ジョン・レノンの『Mother』という曲を演奏した。初めて、自然の肌色と、土の茶色と、空色…藍のムラ染めのブルーの、この三色旗振り回して、「地球はこの旗一つあればいい
とか言って、それでみんなその服着てごみ拾いしてたわけです。そのとき、それで僕の演説を歩行者天国全部止まって聞いたわけですよ。
由結:そうですよね。大注目ですよね。
浜野:ええ。この服は伊勢丹のその角の店で売ってますよと。伊勢丹で200着作った服が全部瞬間で売り切れた。そういう時代だったんですよ。
由結:アイデアと企画力が素晴らしいですね。
浜野:私はその年、そういうことやって、それでまあ新宿の、新宿面白いという骨格を作ったというか。それで“赤坂MUGEN”というのを5月にこう作るんですよね。MUGENというのは、浜野と言えばMUGENと思ってる人がすごく多い。サイケデリックという、高級ディスコクラブを作ったわけ。それによって、オープニングの日に、丹下健三先生から、もうそうそうたるメンバーが集まったわけです。
それで、なんでそんなに集まったかというと、70年大阪万博の前、前夜祭みたいなもんじゃないですか。どんなことやろうかなってみんな思ってるときに、僕はエンバイラメントアートとか、そういうサイケデリックだとかいって、音と光によってもう人を狂わせてやるとかね、言ってして、ものすごい人が集まって、それがいわゆるMUGENの時代、20年続いたディスコって世界にないんです。
なぜそんなのが高級な人たちに受けたかというと、元々世界で一番高いナイトクラブだったから。あの“シーザーズ・パレス”のオーナーが僕に何もかも好きにやっていいから、これお前にやるよと。好き勝手やっていいと。で、シーザーズ・パレスに作った。それによってその赤坂はまた変わっていったと。
それで渋谷は渋谷で、またものすごい、いわゆる、なんていうかな。東急ハンズを作り出したことによって、あれは東急プラザとか、東急中心にいろんなことをやっていって、街は川と共にあるというのを渋谷ではずっと実証してきたと思うんですね。僕の場合、だから、まちづくりでも、都市計画課とか、東大の都市工学の人とかと全然違うわけですよ。人々の歩行者目線で街を作ってきたわけです。
由結:なるほど。そこにいらっしゃる方の目線で作っていると。
浜野:だからどっちかっていうと、都市計画化リストに僕の名前なんか出てこないですね。だけど、あいつがいるとやりづらいよなと。だけど、人々は喜んだはず。
由結:そうですね。そういう企画力とアイデア、そして先見の明ですよね。斬新なアイデアは先生の頭の中にいつもあるんですか。
次世代に受け継ぎたい文化
浜野:毎日の生活がネタみたいなもんですから。僕は最終的に北青山に住んでますが、北青山離れられないのは、その日常がね、みんな、もう未だにね、あそこには、近所の蕎麦屋とか、そういうのが、「先生、どこ行くんですか」みたいにみんな声かけてくれる。そういう世界があるっていうのがすごくいいんで、それがみんな高層ビル化していったら面白くないじゃないですか。
由結:その通りだと思います。
浜野:だから私はあんまり高層ビルに向いてない人間で。
由結:なるほど。高層ビルよりは、地域に根差した場所をお好みなんですね。
浜野:とくにタワマンなんて、うちの息子は住んでんだけど、もううちの長男なんかは全く僕と違うサイドにいますよね。誰も触らないタワマンがいい。で、勤めてるのもGoogleだし、で、「お前何やってんだ」って僕が聞いても、「お父さんに言ってもどうせわからないよ」というITの世界ですよね。僕は全く、ITと全く無縁なところですごい暴れさせていただいた最後の世代なのかな。もしかしたら。だけどいっぱいその心は受け継いでいきたいと思いますよね。
由結:そうですね。次世代にもどんどん受け継いでいっていただきたいと思います。先生、貴重なお話の数々を頂き、ありがとうございます。
浜野:ありがとう。
ANKOW’S MUSEUM―浜野先生と仲間の展示
由結:さて、新しくオープンする“ANKOW’S MUSEUM”。これはどんな構想なのですか。
浜野:ANKOW’S MUSEUMは私が今までやってきたことを、展示する場所です。釣りでほとんど人生3分の1かけてきた、『釣り極道』という本も出してるし、釣りの展覧会を僕の釣り仲間たちと3カ月間やりまして。私の仲間の一番最高峰はジミー・カーター元大統領。ハリソン・フォード。錚々たる面々がいます。最後はスティーブ・ジョブズも遊びの仲間に入りたかったみたい。
僕は最後まで遊べなかったのが残念だって知るんだけど、そういう意味では、遊びと仕事のところで一緒にやってきた仲間が世界にいることは、自分ですごい幸せだから、それを展示する。2回目で、私の全仕事を展示する。3回目はこれからどんな生活かって、ライフスタイルのいろいろこまごまとしたことをまとめたのを3カ月ずつやって、あとは若者に提供する。
それで、もう一つの、提供すると共に、自分のスタジオのほうはそこで映画の編集もできる、録音もできる。20人ぐらいの、20席ぐらいのミニミニシアターもあって、若い人には映画作る。見せられる。展覧もできるというような場所を提供すると。まさにアンダーグラウンドを作りたいですね。
由結:そうですか。いやー素晴らしい。将来有望な若者にもチャンスをということですね。
浜野:そうそう。ぜひ。
由結:先生、2週に渡りまして有難うございます。
浜野:いやいや。なんか離れてしゃべったのかな。
由結:いえいえ。本当に貴重なお話いただきましてありがとうございます。またぜひ遊びにいらしていただけますと嬉しく思います。本当にありがとうございました。
浜野:はい。どうもありがとう。
銀座ロイヤルサロン3週目
声診断ソフトで“浜野安宏先生の斬新な発想の源”に迫る!
由結:それでは、ここからは声診断コーナーです。これまでに2万人以上の臨床データがある声診断ソフトにより、ゲストの方の声の波形を読み取り、その個性を紐解いていきます。本日のゲストは、浜野総合研究所 代表取締役社長 浜野安宏先生です。よろしくお願いいたします。
浜野:よろしくお願いします。
稲井:よろしくお願いします。
由結:いや、もう、2週に渡りまして先生の素晴らしいお話を伺わせて頂いて、もう本当にワクワクドキドキ、感動しっぱなしでした。
どのようにしてこのような斬新な発想が生まれてくるのかというところを、この声診断を元に紐解いていきたいと思っております。そして、声診断を担当しますのは、ユウキアユミワールドアカデミー学長の稲井英人さんです。よろしくお願いいたします。
稲井:よろしくお願いします。
浜野:よろしくお願いします。
由結:では、早速進めていただけますか。
稲井:はい。じゃあ先生、早速ですが、これをつけていただきながら、普通の会話をしながらとってみたいと思います。
浜野:耳はこれでいいですか。
稲井:はい。そうですね。こちらにマイクついてますので、普通のしゃべりをしていきながら、解説していきたいと思います。じゃあまず、ご自身の自己紹介的に、例えば、15秒ぐらいしゃべるとしたら、日ごろどんなふうにご紹介されてるんですか。
浜野:私は映画監督が今一番ですね。それでライフスタイルプロデューサー。それから、生活探検家。生活探検家というのは一番得意なんですけど、あんまりみんなに流通しないので、映画監督と言ってるわけですけど。
稲井:なるほど。生活探検家としてのご活動はどういうものなのでしょうか。
浜野:非常に興味津々でなんでも、新しい生活が巻き起こる。どこかで巻き起こると、それを見に行きたい。だから、イースト・ヴィレッジでヒッピーが出てきた。それが西海岸に移って、ヘイト・アシュベリーなんて、ビートニックヒッピーが歩いてる道があるって、それを見に行くし、そいつがどんな生活してるんだと。結構玄米食べてナチュラルな生活してるな。結局全部ターンオンと言う、彼らが言うターンオンして、生活をそこへもっと自然に戻そうとしてるんじゃないか。そういうところからニューライフスタイルという、一つの概念を1970年の『質素革命』と本の中で帯に書くんですね。そのニューライフスタイルが今や普通の言葉として流通してますよね。
未来を洞察して見抜く
稲井:なるほど。声診断ソフトで分析しましたら、未来のことを語ったり、独特なことを語ったときに、ネイビーブルーが出ています。このネイビーブルーは“先見性”を表します。第三の眼がパッコーンと開いて、未来を洞察して見抜いてますね。
未来、都市、街づくりを手掛けられているのもよくわかりますね。だから、遠くから俯瞰した目で全体をトータルに見るのが非常にお得意なんじゃないですか。
浜野:そうかもしれないね。ファッションやってたころは、大体次この色が流行るなとか、次こうなるなって、今あんまり1色が流行ることはないんですけど、私がファッションやってたころは、黒が流行ったら黒の、そういうようなときに大体次この色だって僕思った色になっていきましたよね。
稲井:なるほど。
浜野:街でもね、次はこの街だぞと、こう匂いがするというか、例えばハワイのマウイ島のヒッピーコミューンが面白そうだというと、そこへいって、ヌーデストコミューンと一緒になって活動したり、そしたらそこの人が私に玄米の炊き方教えろと。そしたらここに1カ月滞在してもいいぞと。ちょうどMUGENで“サイケの浜野”と言われてたのが、突然、マウイ島行ってヒッピーコミューン行ったという、すごいこう激変じゃない、普通の人からみたら。僕にとっては全く一緒なんですね。
要するに何かと言われたら、サイケデリックっていうのは感覚を解放して認識を拡大するという、これが一番大きな目的なんで、まさにそれは次の世界、僕はボーンと入り込んでいく、一つきっかけになってるわけ。だから、マウイ島で自然体験をしてきた。
それはもっと近いところでないかというんで、ロタ島というグアムの近いところで、あそこも素っ裸で生活できるぐらい、誰も人来なかった。当時は。そこで僕は素っ裸で寝てる写真、僕の写真集の中に出てきますけど、それからもう、なんかもう、完全に、要するに、自然で完全にストーンというんですけど、自然群で、自然で、もうハイになったまんま、自転車に乗って、僕は虹を見ながら自転車を運転してるんだよっていう写真があるんですけど、そんなん見るとね、人はなんか飲んでるんじゃないかというふうに見える。飲んでるもっと先行ってたんですね。
今、いろいろ薬物やなんかでストーンなる人がさらにその先行きつくと、ナチュラルストーンになるというところへ向かうんです。それで自然生活をしたいという。そしたらやっぱりその人たちがやる農業と、生産のための農業とまた全然違う世界なんですね。僕はそういう意味では、今ものすごいスケールの農業をハワイ島でやろうとしてる。
“土地・不動産運”“いきいき・ワクワク”“世の中に貢献する”力
稲井:そうですか。先生、それ、いいですよ。ちょっと見てください。このレッドって赤の部分。これはとにかく土地とか不動産的な運を持っていたり、物事を形作るという意味があります。そして、結果を出すという意味。それとやっぱりこのオレンジの部分がこれ丹田のあたりなんですね。これがもう少年のような、いきいき・ワクワク・ドキドキ。夢を語るときのあの感じ。周りを完全に巻き込んでいって、もう先生の夢に、わかった、応援するよ、と友だちが寄ってくるみたいな、そういうエネルギーがもうみんなを引っ張っていってますね。
それで「世のため人のために何かしたい」というマゼンタピンクとかヴァイオレットがありまして、これがやはり根底はなんか世の中に何か貢献したい。そういう思いが強そうですけど、何かありますか。
浜野:ありますよ。やっぱり貢献したいと思ってるのは。あまりにもみんな奴隷化するというか、奴隷が一番楽だと思っている。要するにアメリカ様の言う通りしてたほうが楽だと思う人が多い。我々はまあ現体制に従ってたらいいんだと。だけど今そうじゃないんじゃないかとみんなちょっとずつ思い出してる。これはコロナってものすごい大きな意味を持ってて、投資しちゃったんですね、人々が。
だから、「へえー、これでいいの」
っていう感じが、今の国民にきたことは、それは体制にとっては危険かもしれんけど、僕のような先を示して何かリードしていく人間には、次の時代をやりやすくしてくれてるよね。だから早くフリーパスポートになって、ハワイ島にも行きたいし、あっちこっちみんなを連れていきたいよ。
南米にもまだいっぱい素晴らしいところあるし、もう、例えばもう今、僕の友だちなんか、いい土を探してアルゼンチンまで行って、アルゼンチンで大豆作って、それでもうもやし作ってるって人もいるしね。日本人の中でもそういう代表的に突出した行動してる人はいっぱいいるんですね。まだみんなそういう人たちのことを注目していない。
要するにポプリュズムの中で話題になっているとか、お笑いの芸人がワイワイ言ってるのってのは、本当は表層をなでてるだけで、もっと深いところ突っ込んでのものすごい人たちはいっぱいいるんですよ。そこをみんなもう少し目を向けて、もうちょっといい生き方探そうという、やっぱりそれ探すのも言われた通りをするんじゃなくて、何か自分でやってみるとワンステップ前へ、ワンステップ前へ進むということがすごい大事ですよね。
稲井:そうですよね。今のビジョンは大きな、もう地球規模の話でしょ。それ見たとき、もう全部の色の波形が出るんですよ。ほぼ。もうこうなったら悟りの領域。
一同:(笑)。
稲井:本当に。その声のときっていうのは、みんなが聞いてしまうんです。
由結:今聞き入ってしまいましたね、本当に。
悟りの領域の声
稲井:聞き入ったでしょ。もう見事です。だから内側のエネルギーなんかはもう悟りの領域です、これ。実は、これちょっと(先生の頭を)触りますね。この百会のツボのあたり。紫のところなんですが、上から下まで出てますよね。これ結構修行僧はこういう状態になるんです。だから今、話されてるときには、もうある意味ちょっと変な言い方しますと、天とつながってるような状態で話されてた。しゃべらされていたと言ってもいいですね。
浜野:それはあると思いますよね。ある人が、もう非常に超偉い人で、右翼のものと言われたり、だけど大変素晴らしい人だと、田中清玄という人がいたわけですが、僕が軽井沢の旧道を歩いていたら、若いときに、まだ長髪で若いやつを引き連れて、なんか、ものすごい勢いで歩いてたら、その部下の方がこっちへ来られて、「あそこの老人があなたとお話したいと言ってるんだけど、ちょっとお茶でも飲んでくれますか」と。
稲井:ナンパされましたね。
浜野:ええ(笑)。その前座った隣にその田中清玄さんが、「君は坂本龍馬に似とるな」と言ったんですよ。それはもうものすごい暗示だったわけですね。それで、俺が坂本龍馬か。よし、わかったといって、それで、いろいろ元気よく話をしてたら、彼はものすごい手を打ったわけです。
これから、君、毎月ね、その部下の方に、こいつにうまいもの食わせろと。それでいつもね、その地方の一番うまいものを知ってる金持ちの親父をつけろと。いろんな人が誘ってくる。毎月1回。今日はここのウナギ食わすよ。今日はここの刺身食わしたる。なんかいろいろなことで、ご厄介になりながら、いろんな話をその方々としてた。それはものすごいプラスになってて、私をいろいろ助けてくれるんですね。
稲井:なるほど。
浜野:それで、軽井沢で田中清玄さんに会ったというのは一つのことだし、田中角栄さんもね。僕は“田中角栄に提言する会”っていう、若手のメンバー、岡本行夫と私と教育界の大物とか、いろいろ、何人かでね。今大物になってる人たちが亡くなった人も多いんですが、月に1回、田中先生とご飯を食べるという幸運なことがあったわけですよ。
そのときに、あんまり来られないんですけど、山下元利さんという、元防衛庁長官までなられた方が、代わりになって、いつもお相手してくれてたわけです。そのときも、面白いのが、田中さんが来たら、「おい、この中に誰かフランス語得意なやついるか」って言うから、いや、私は得意じゃないけど、私のフランスの交渉人が、アンドレマナルドっていうのは、ものすごいフランス語というか、日本語がうまくて、これジュネーブの国連の通訳やってるんですよ。「よし、そいつに俺の日本列島改造論訳させろ」って言って、それで、翻訳が出たんですよ。そのときの会合で唯一残った実績ですけど。
稲井:素晴らしい。すごい。やはり引き寄せてます、先生、本当に。
由結:素晴らしいですね。
人をまとめ上げていく役目
稲井:いやいや。半端ではないです。今、田中角栄さんやその他の皆さんのことを話したときに、ライムグリーンが出ています。ライムグリーンは、みんなの話も聞きながら、でも気が付くと自分のペースに持っていく力があるんです。これがないと人をまとめる力がないんです。やはり先生は、人をまとめ上げていく、一つのお役割がおありですね。
浜野:まあまあ、うまくまとめる力があるかなどうかな(笑)。ただただ出発の合図をするばっかりかもしれないけどね(笑)。
稲井:そういう人が一人いないと物事が動かないですから。さらに、レッドが出ています。これは、物事を現実化する、形にしていくという意味があります。
浜野:ものすごく面白いですね。
浜野先生の大元は“愛”と“現実を形にする力”
稲井:さらに、この底、奥深いこの底の部分からもマゼンダピンクが出ています。先生の大元は愛なんですよ。そして、底の底の底にこの赤の力。これは現実を形にする力。エネルギーがかなりあります。まだまだ120、150歳まで生きますよ。
浜野:体力も体力頑張らなあかん(笑)。
稲井:いけます、いけます。いやーこれは見事ですね。
浜野:ありがとうございます。
稲井:素敵なお声を聞かせていただきました。
由結:そうですね。素晴らしいですね。先生のエネルギーの源が解明されました。先生、診断を受けられていかがでしたか。
浜野:いや、面白いですね。このように絵に表すとすごいですね。ええ、そうですか。
稲井:はい。人に与えてる印象。人が先生の話を聞いたときにエネルギーがわかります。
浜野:これから自信持ってしゃべれますよ。何人かの人から強く言われることがあるんですよ。例えば駄目になりかかった中央百貨店を再生させるとか、いろいろ。その人たちがやっぱり今も頑張っているし、早く死んだ方もいらっしゃるんですけど、しかしその残したブランド。例えばWILD-1というアウトドアのショップがあるんですよね。今キャンプブームでしょ。それを一番作ったのはそのWILD-1なんですよ。
宇都宮の起業家なんですけど、私のところへ来られて、「浜野先生、東急ハンズのようなことを地方でもやれないかな」と言うから、こう言ったんです。「東急ハンズはもうこれでもう一つの時代の象徴でしょうから、やるならば僕と新しいことやりましょう。アウトドアが今ブームだから、アウトドアのやっぱり新しい店を作りませんかと。僕とアラスカへ行きませんか。僕とワイオミングの家に来ますか。」と。いろんなところへ連れて歩いてるうちに、彼はどんどん成功していった。
稲井:いやー素晴らしい。
由結:いやー先生、まだまだお話が尽きませんけれども。
一同:(笑)。
稲井:本当に。
由結:貴重なお話をいただいて、本当にありがとうございました。3週に渡りましてご登場いただきました。
稲井:そうですね。
浜野:ありがとう。こちらこそいい体験させてもらって。
由結:本当にありがとうございました。
浜野:ありがとうございました。
稲井:ありがとうございました。
浜野安宏さんのプロフィール |
ライフスタイル・プロデューサー、商環境プロデューサー 1941年、京都生まれ |