三國清三さん オテル・ドゥ・ミクニ オーナーシェフ 日本遺産大使「ジャポゼニゼ」
三國シェフの故郷「増毛(ましけ)」の魅力と修行時代の挫折からの復活!
由結:それでは、本日の素敵なゲストをご紹介いたします。『オテル・ドゥ・ミクニ』オーナーシェフ、そして日本遺産大使としても食の名物を全国各地で開発していらっしゃいます、三國清三さんです。よろしくお願いいたします。
三國:よろしくお願いします。
由結:三國シェフと言えば、食のトップランナーとして走り続けていらっしゃる方ですから。
三國:業界長いですからね。ここも四ツ谷で始めて35年経ちますし、15歳からこの業界に入ってるんで、もう45年過ぎましたしね。まあ、長くやってます。
北海道の増毛と豊富な食材
由結:三國シェフは北海道増毛のお生まれでいらっしゃるとか。
三國:はい。増毛って、増える毛って書くんですね。ちょうど小樽の上ですね。増毛は高倉健さんの駅、ステーションのロケ地なんです。駅が増毛駅で、それで結構皆さんよく知ってます。
由結:こちらは豊富な食材があるそうですが、甘エビも有名ですよね。
三國:昔はニシンが一番採れた場所なんですけど、今は甘エビが採れますね。増毛の沖で採れる甘エビの漁で日本の市場がほとんど決まってるんです。それぐらい。
由結:わぁ、それぐらい影響力があるということなんですね。そして、それだけではなくて、フルーツや野菜もたくさん採れるとか。
三國:はい。大体増毛の漁村なんですけども、皆さん、北海道は内陸地は果物などが多いんですが、漁村で魚介類が豊富で、もうリンゴから、ピーチから、ブドウから、あと南陽って言ってね、こんなでかいさくらんぼ!
で、皆さん、大体さくらんぼ、山形の佐藤錦があれが最後だって言われるんですけど、そのあとに増毛で南陽っていう、こんなごついのが1カ月だけ採れるんです。もう果物の里って言われるぐらい、漁村でそういう両方採れるところってのはこの増毛だけなんです。
三國シェフのルーツ
由結:素晴らしいですね。そういった豊富な食材を身近に感じながらお育ちになったと思うんですけど、それがシェフの礎になったのかなと思うのですが、いかがでしょうか。
三國:そうですね。まあ、うちの親父が漁師で漁を手伝って、おふくろが農家で、半農半漁ですね。だから半分は農業手伝って、半分はその漁師を手伝ってたので、別に料理人ってのは、料理が好きで始めたわけではないんですけど、今となってみれば、その料理人にとって食材っていうのが生命線ですから、そういう意味では、ですから、料理人で親父が漁師でおふくろが農家ってのは、そういないですよね。ざらには。だから僕が漁師であり、農家の人が料理を作ってるようなもんで、そういう意味ではもうちっちゃいころから英才教育っていうか、それに親しんでたので、天職かなと思ってます。
食材は曲がっているのが自然
由結:そうですか。シェフは食材を目の前にすると、発想ってわいてくるものなのですか。
三國:例えば、トマトとかあれも全部作ってましたから、トマトって最初青いんです。
由結:はい。まだ熟れる前ですもんね。
三國:それから黄ばんでくるんです。それから真っ赤にはならないです。オレンジ色になって、それから赤になって、それから真っ赤になる。それと、キュウリでも何でもそうなんですけど、太陽に向かうと全部曲がるんです。真っ直ぐのものってのは世の中に存在しない。だから、でも我々、よくデパートとかどっか買いにいくと大体真っ直ぐじゃないですか。
由結:そうですね。きれいになってます。
三國:形が同じ。それは自然なものじゃない。自然のものってのは、そうやって色がムラがあって、必ず生き物ってのは太陽に向かうので、必ず100%曲がる。そういうものが本当の自然のもの。
由結:そうなんですね。
三國:真っ直ぐなものは人の手を加えるから真っ直ぐになって、人間も一緒じゃないですか。真っ直ぐ育った子はろくでもないです。やっぱり曲がんないと、やっぱり、こういうコロナの時代生き残っていけません。
由結:いや~その通り。
三國:はい。危険です。真っ直ぐなものは。やっぱりね、食材も曲がると、やっぱそこでエネルギーを持つんですね。だからよくその我々冷蔵庫で野菜、何でもそうですけど、立てておくと、大体3倍は長持ち。大体みんな寝かせてるじゃないですか。そうすると1週間で全部腐っちゃう。なぜかっていうと、結局採られてももがれても生命力ありますから、真っ直ぐ立ってると生きようとする。だから全然違いますよ。本当見事に。
由結:そうなんですね。ということは、生えてきたそのままの状態で入れてさしあげるといいんですね?
三國:そうなんです。できれば。冷蔵庫で立てるだけ、やっかいですけどね。
由結:なるほど。勉強になります。
三國:はい。だから僕は根性が曲がってるってよく言う(笑)。本当ですよ。本当本当。これ(卓上の花)なんかも曲がってるでしょ、これね。これが真っ直ぐだと立たないんですよ。これ手作りなんですけどね。
由結:とても素敵ですものね。
三國:これ曲げなければ立たない。これがもう自然の理屈ですよね。
食材との出会い
由結:さすが素晴らしいご見解ですね。料理にも活かされていらっしゃるんだと思うんですけれども、増毛では人の出会いっていうのをたくさんあったかと思うんですけれども、いかがですか。
三國:いや、増毛では誰とも出会わないです(笑)
由結:あっそうですか!
三國:もう誰もいないですよ。増毛って今人口が5000人ぐらいしかいないんですよ。だから、ずっと同じ人だし、出会いはなかったですね。だから出会いがなくて、僕の出会いは親父と毎日海行って、そうですね。出会いと言えば魚ですよ。あいつら。昆布とか、ナマコとか、アワビだとか、鮭とかぐらい。庭に行くとトマトだとか、キュウリだとか、ナスとか、もうそれもう仲間でしたね。本当に。
由結:わぁ、仲間なんですね。そして、増毛を出られることになりますが、そのあとどうなさったのですか。
増毛のニシン
三國:実はその増毛って、ちょうど小樽の上なんですけど、ちょうど入り江になってるんです。なので、小樽がここで増毛がこっちなんで、天気だと向こう岸が見えるんです。昭和28年にニシンって稚内の上から、ロシアの方から来るニシンと、江差っていう下の方から上がっていく二つの通路があって、最後昭和28年に江差から小樽を回遊して、増毛の沖で一匹も採れなくなったんです。
由結:そうだったんですね。
三國:はい。一匹も。それはまではもう採れて採れて、ニシン御殿があるぐらいですからね。一匹も採れなくなって、それが昭和28年。僕が生まれたのが昭和29年。僕はニシンの生まれ変わりなんです。
由結:おぉ、そうなんですね!?
貧乏だった中学時代
三國:そう、ニシンの生まれ変わり。それは福井まで行くんです。北前船ってのは、福井の三国港から出発するんです。日本海側。そのへんがニシン不漁によって、一匹も採れなくなって、貧乏になっていくわけですよ。だから僕の年って1954年生まれなんですけども、確かその年から全員100%、99%、高校進学が当たり前になった年です。全員。
由結:そうでしたか!
三國:そのときにうちは親父が三男で漁師でしたから、もうもろに貧乏になるわけですよ。それでもう増毛第二中学校って言うんですけどね。高校に行けなかったのは。僕とツシマくんっていう2人だけね。もう貧乏で貧乏で。ツシマとね、どうする?俺たちうち貧乏なのわかってるから、俺たち高校に行けねえぞ。行きてえなって2人で、で、担任の先生に相談したら、ちょうどみんな、札幌の南十六条で米屋の丁稚奉公をすれば住み込みで給料くれて、夜、夜間学校行けるという。かりだしてあげるっていうので、2人で飛びついて、中学出て2人で札幌に上がったの。で、昼働いて、夜、その料理学校に2人で通ったんです。
由結:なるほど。それが料理との出会いだったのでしょうか。
三國:まあ料理って、増毛に食堂がなかったので、料理ってのはわかんなかったんですね。うちでは刺身だとか煮っ転がしで、で、うちの兄2人いるの。兄も中卒で大工になるわけ。大工さん。大工さんってもうとにかく1番手に職をつけて、住み込みで、兄が正月に必ず帰ってくるわけ。年に1回。
そうすると、もう兄2人が、「冬はおめえ寒いぞ」って、重いしね、もう本当つらいぞって聞いてたんです。大体貧乏なうちはほとんどは大工さんになるんですよ。僕はそれが嫌で嫌で。おふくろに、「おめえね、料理やれ。料理やったら学歴がないけどもうくいっぱぐれがねえ」と。食って一生過ごせるから料理やれって言って、その動機で料理学校へやる。で、ツシマも同じで、いやーそうだよ。食う物あれば俺たち中卒だし行くべって言って、二人で15で南十六条に出てきたんです。
由結:すごい決意!その後はどうなさったのですか。
北海道グランドホテル時代
三國:そうですね。15で札幌に出て、それから米屋の丁稚奉公終わって、札幌グランドホテルに入って、それで18になって、15から料理人やってるので、もう16、17、18、もう3年ぐらい調理やってるから、18ぐらいになるわけですよ。そうすると、中卒で、みんな高卒で入ってくるからね。そうすると厨房で、要は年は一緒だけど僕が早いわけですよ。もう16でやってるから。
そしたら、料理人ってやっぱり手が早くて、仕事がきれいで、もうおいしければもう勝ちなんですよ。もうその学歴全く関係ない世界で、で、僕も高卒のやつらいじめてやろうと思って、3年ぐらいやってるからもう毎日ケンカですよ。「何おまえたらたらやってんだよ。そんなことできねえのか」僕は正社員じゃなかったんでね。みんな高校卒業して、ちゃんと試験を受けてグランドホテルに入って…。でも僕は裏口のバイトからはじめてここまでやってきたんだという自負があったからね。もう毎日僕がいじめるわけ。で、やつらも、まあ、しゃあないね。僕、もう3年ぐらいやってるわけだから毎日ケンカしてたの。そしたらある先輩が、後に札幌の全日空ホテルの総料理長になる宇野さんっていうんですけど、宇野さんが来て、もう「いい加減にしろ」って叱られて、「お前ね、増毛から来てちょっとできるからって、東京には帝国ホテルという日本一のホテルがあるんだ。そこには神様の料理人がいるんだ。村上さんだ。お前なんて、足元にも及ばん。いい加減にせえ」って言われて。
まあまあ僕は元々うちのおふくろも、わりとうちの親父もおふくろも朝3時か4時頃起きて、うち、ご飯も作ってましたから、飯だけ、飯とおつゆだけ作って出て行くんですよ。朝4時から5時。もう日が暮れてからうちに帰ってくるわけ。だから本当に簡単な刺身だ、芋の煮っ転がしだ、そんなものだけ食べて風呂沸かして寝て…なんていうのかな。あんなに朝から晩まで働いて、それでも貧乏だったんですよ。なので、本当に純粋に、神様は本当に理不尽だって、ずっと、神様は理不尽だってずっと本当に思ってたの。
由結:いやあ…すごい世界。神様は理不尽…ですか。
いざ東京へ…!帝国ホテル時代
三國:そう。その先輩から料理の神様って聞いて、えっ?と思って、料理の神様って。もう18でしたから、何が何でもその人に会わなきゃいけないと思った。自分でね。青木さんっていう、料理長にまた頼んで、「何とか帝国に行きたいんだけど」「わかった。お前は一回いったらもう聞かないから」って言って、一番北海道でえらい斉藤さんっていう料理長のところに連れていかれて、紹介状を書いてもらったんです。村上料理長と北海道の代表料理長ですから、二人は。で、手紙一本持って津軽海峡を渡ったのが18。
由結:うわぁ、ドラマチック!
三國:もう津軽海峡は雪でした。
由結:そうでしたか。演歌の世界って感じですね。
三國:はい。演歌の世界でした。ちょうど僕が18のときにそうやって渡って行ったんです。村上料理長への電話もあったし、手紙をお渡しして、中に何書いてるか未だにわかんないんですけどね。そうしたら、「三國くん、オイルショックを迎えて、今、帝国ホテルの希望退職者を募ってるんだ。だから厨房には入れるけど、アルバイトで。その代わり順番待ちをしなさい。28番目かな。で、欠員ができたら一人ずつ社員にするから」と言われて、18にまた洗い場です。洗い場、18、19、20。僕8月10日誕生日でね、まさか3年間洗い場をやるとは思ってないわけですよ、僕は。で、その前の日に、札幌グランドホテルって50人ぐらいいるんですけど、まあ、北海道では北の迎賓館って言われてね。
由結:そうですね。素晴らしいホテルですね。
三國:もう総料理長から、「マル、行くな」と。今ちょっとデブで、小さいからマルってあだ名が付けられてたんだけど、「東京なんて行くとこじゃない。お前みたいな田舎者が行っても米食わしてくれねえんだぞ。鬼ばっかりなんだ。お前売られるぞ」
由結:なるほど。
三國:ちょうど札幌グランドホテルの総料理長、南出さん。で、東京から来て、だからよくわかってるわけですよ。お前ね、やめろと。で、まあ、何が何でも神様に会いたかったので、札幌グランドホテルは50人の大きさで、行ってみたらその当時、帝国ホテル、料理人が650名。で、パティシエ、お菓子屋さんが400人。1000人の所帯ですよ。てっぺんに村上料理長。
由結:わあ、本当に天上の人ですね。
三國:で、僕も札幌グランドホテルで何とかなったので、何とかなるべと思って入りました。
由結:はい。いかがでしたか。
帝国ホテルでの挫折経験
三國:いやもう18、19、20とずっと洗い場です。さすがに、20歳になったわけです、僕ちょうど8月10日に。本当に人生で初めて挫折したんです。18、19、20歳、3年間洗い場、普通やれないですよ。3年間。で、8月10日なって、もう諦めよう…と。
由結:ああ、ついに…!?
三國:20歳になって、もう増毛に帰ろう。どの面を下げて帰ればよいのか。札幌に帰れないし、本当にこっそり逃げるように増毛に帰ろうと思ってたの。増毛は貧乏だから嫌だなーとは思ってたんだけど、でももうしょうがないじゃない、行くところないし。
由結:そうですね…。
三國:8月に本当にこう、まあ、今までがむしゃらに一生懸命やってたら何とかそうやっていろんな人に出会いがあって何とかなって、札幌グランドホテルも例外で社員にしてくれたんです。中卒だったけど。中卒は本当は社員になれなかったんで。だから何とかなるって甘い考えで来たんです。
由結:なるほど。そして、その後どうなったのですか。
三國:やっぱり無理なものは無理だし、どんな頑張っても駄目なものは駄目なんだって自分で思ったんですね。忘れもしない8月、クソッ!と思ったんです。帝国ホテルに18あるレストランのひとつ「グリルルーム」、今の「レ セゾン」の前身の店で3年間ずっと洗い場やってましたから。
で、「グリルルーム」の親方に申し出たんです。僕その年にもう増毛に帰ろうと自分で決めてましたから。「18のレストランの洗い場全部やっていいですか」って言ったら、「やれ」って言われて、それからもう毎日18のレストラン回って、洗い場。クソッと思って!
由結:自ら志願したんですね。
三國:まあまあ、自分としてはやっぱり、華の帝国ホテルに来て、帝国で働いて、その帝国の18の全部のレストラン、やったんだと。何かほしかったんで、それでもう毎日、毎日。
由結:洗い場では達人だったのでは?
村上料理長からの大抜擢
三國:それはもう早いですよ。で、がむしゃらにやってたら、10月だったかな。10月の頭に村上料理長に呼ばれたんですよ。紹介があったからって会える方じゃないので、僕もいずれはやっぱりちゃんと帰りますって言わなきゃって。で、呼ばれたの。「三國来なさい」って。僕はもう社員にもなれないし、3年間も洗い場、もう増毛に帰りなさいって言われるんだろうなと。僕もちょうどご挨拶もできるしって言って、料理長室に行ったんです。言ったら、村上料理長から、650人の料理人の中から一番腕のいい料理人を、すぐ年明けたらスイスのジュネーブの駐スイス日本大使館のコック長に推薦を受けたわけ。で、「お前行け」と。
由結:いや~驚きですね!
三國:僕はもう想定外ですよ。まさか東京に来るもいっぱいいっぱいなのに、「はぁ、スイス?」みたいな。もう想像つかないわけですよ。でも、一瞬、3秒ですよ。増毛がパッと出てきたわけ。でも本当貧乏で貧乏でつらかったんですよ。って思った瞬間、3秒で、「行きます」って。
由結:即決…!
三國:もう3秒で!
由結:なるほど。ということで、この今の現在のシェフにつながっていくということですので、また来週も…。
三國:またあるんですか。次。
由結:そうなんです。お話を伺っていきたいと思います。
三國:この何か苦労話、今流行らないですけど。
由結:いえいえ。素晴らしいお話ありがとうございました!
三國:じゃあ倍返しで(笑)
由結:はい(笑)ぜひよろしくお願いいたします。
三國シェフ コロナ時代の食の届け方&北海道ダイヤモンドロマン計画
由結:はい。先週に引き続き、お話を伺っていきたいと思います。もう素晴らしい…。
三國:貧乏話を。
由結:いえいえ。もう素晴らしいご経験の数々!
三國:今時代にはやらないですから(笑)
由結:いやいや。もう、こうやってシェフが生まれたんだということがよくわかりました。そして、そのときに帝国ホテルでの修行時代をお話を伺って感動したんですけれども、3年間、鍋を洗い続けたという…!
三國:18のレストランをずっと洗い場。まあ給料もほとんどなしというか…そして、8月10日挫折してからですから。まあ、そこですよね。どっちの方に行くか。挫折してそのまま、こう、悪い道っていったら、自分を卑下していくのか、僕はたまたまクソッと思って、その18のレストラン、全部、鍋洗いをピカピカに、そういうのをやっぱり村上さんとか先輩は見てたんですね。
由結:いや~感慨深いですね。
三國:はい。今、こういうコロナの時代で、やっぱりそこですよね。今の若い人たちに伝えたいと思いますね。僕は今もう上のポジションですが、やっぱり我々も見てますからね。うちの若い子たちを。
由結:そんなシェフなんですけれども、その帝国ホテルで駐スイス日本大使館料理長に抜擢されるわけですよね。
駐スイス日本大使館料理長時代
三國:そうですね。スイスのジュネーブの軍縮大使。スイスってのは、スイスには三つの大使館があるんです。ベルンっていうところと、あとジュネーヴには二つ。全権大使と僕が務めた軍縮大使っていう、三つもあるんです、大使館。
大使って大体2年なんですよ。2年で変わるんですけど、うちの大使はそういう軍縮という特殊な専門大使で、2年間お勤めできて、僕はすぐそのまんまフランスに修行に行こうと思ってたんですけど、2年過ぎたら今度、海洋法という特殊な大使もうちの大使が受けて、それまた2年延期になって、正味3年8カ月。延期になったんです。
僕もそれ任期年で終わったので、フランスに行ってもよかったんですけど、たまたま僕が後に世界一の、料理界のモーツァルトって言われたフレディ・ジラルデ シェフに、僕は日曜日休みでしたから、ジュネーヴからローザンヌ、1時間かけて、そこで研修をしてたんです。ずっと、毎週。それがあったので、もう2年間延びるっていうことで、ジラルデさんでそうやって修行できるのであればっていうことで、3年8カ月、2期務めた。
由結:はあ~誰でもできる経験ではありませんよね。そしてそのあとはどうなさったのですか?
フレディ・ジラルデ シェフのポジションでのお勤めはじめフランスでの修行時代
三國:そのあとはフランスに渡って、そのあと正式に言うと、その大使館での務めは終わりましたので、今度正式に、そのときは研修でしたから、1年間レギュラーで。それが終わってからフランスの三つ星を回って、ちょうど28歳で日本に帰って、レストランの料理長やって、30のときにこの四ツ谷のお店をオープンしたんです。
それは理由があって、ちょうど村上料理長に、僕が20歳のときに言われたんです。行きなさいと、ジュネーヴに。で、大使館に勤めたら、もうお給料ももらえるし、生活も保障されるし、いただいたお給料を全部自己投資にしなさいと。お休みのときは美術館に行ったり、手伝いも行ったり、で、10年後は君たちの時代が必ず来るから、10年は必ずそのヨーロッパで修行してきなさいって言って、自分の中でミッションですよね。20歳のころの。なので、30では何が何でもお店を持とうと自分の中で決めてたので。
由結:固い決意ですね。
『オテル・ドゥ・ミクニ』をオープンと時代の難局
三國:はい。で、ちょうど28で料理長やって、1年半勤めて、30になったときにこの場所で『オテル・ドゥ・ミクニ』をオープンしたんです。
由結:夢を実現されたのですね。このお店で働く後進の方々にどんなことをお伝えになっているのでしょうか。
三國:そうですね。ここちょうど1985年にオープンしたんですね。その85年というのは、日本だけじゃなくて、世界でもいろいろな点が変化するんですね。日本ではその次の年に1億総グルメ時代がやってくるんです。
そういうグルメブームが起きて、「料理の鉄人」という番組ができたんです。あれは当初、「三國清三の料理の鉄人」っていう番組だったんです。それを僕が断って、グルメブームが起きて、それからそのバブルが崩壊するわけです。それで高級店というか、東京のお店が本当にもうどんどん閉店になりました。それを乗り切ったと思ったら、今度リーマンショックが現れて、また高級店がどんどん閉めて、今度3.11ですよね。
由結:はい。
コロナ時代 料理界後進の方々への提言
三國:もうフランス料理なんていう高級なものを食べる時代じゃない。そういう時代を経て、これから東京オリンピックもあるしっていう最中に、このコロナでしょう。
もう今までバブルも、リーマンショックも、3.11もいろいろ経験してきた中で、このコロナが一番、多分このまま続いたらもう年内、もうほとんどのお店が、企業は赤字になるだろうし、お店もどんどん閉めちゃう。それはうちも同様。
僕はあまりスタッフ集めてミーティングはしたことないんですけど、今回コロナに関しては、特別に対応しました。全員集めて、ミーティングをして、こういう状況下の中で、「我々は潰れるかもしれない。でも乗り切れるかもしれない。僕がどういうことをするのかをよく見ておきなさい」と。
「僕が、あなた方の社長がどういうことを手を打って、どういうことをして、スタッフたちも将来自分のお店を持ったり、お店の責任者になるわけですよ。そのときにもう、その子たちの判断で、どうやって乗り切るか。それをよく見ておけ」っていうことを、毎月、昨日もミーティングしてました。
北海道ダイヤモンドロマン計画とは
由結:リーダーとしての三國シェフの姿を見て、皆さんが一丸となって取り組んでいらっしゃるのですね。そんな中、三國シェフは北海道ダイヤモンドロマンという企画を立ち上げられたということなんですけれども、これを教えていただいてよろしいでしょうか。
三國:はい。これは僕が「日本遺産大使」っていうのを命じられてまして、僕は地元北海道ですから、北海道中心に、その北海道って、今全国でそうなんですけど、もう魚もだんだん採れなくなって、環境、結局増毛なんか、昭和28年にあれほど採れたニシンが一匹も採れなくなった。それは未だにわからないんです。原因が。乱獲なのか、自然の環境なのか、未だにわかってない。
由結:なるほど…解明されてないんですね。
日本の自給率と北海道の自給率
三國:はい。今日本全国にそういう乱れって言って、いろんなその環境で何でもかんでも採って、本当にお魚とか、そういうものが本当に見事に採れなくなってきてるんです。だからそういう中で、日本の自給率は40%、少し上がったんですけど、3.11とか迎えて、今下がって38%かな。
ということは、どういうことかっていうと、先進国っていうのは、もう80%、90%の自給率を持たなければ、先進国と言っちゃいけない。それはどういうことかっていうと、例えばその国の国民が食べられる食料が、本来であれば100%なければいけない。本来であればね。
それが日本の場合、38%っていうと大体60%強、海外から食料を輸入してるわけです。今回のようにコロナでアメリカなんてアメリカファースト、今みんなこう叫んでますよ。まず自分の国が大事なんだと。食料をキープするわけです。そうすると日本には入って来なくなるわけです。そうしたら、極論ですよ。このまま極論で言ったら、日本の60%の人が食べ物が無くなるっていうことなんです。
由結:はい。これから先、その可能性があるわけですね。
三國:極論ですけど、可能性がある。なので、日本の自給率を高めなければならないっていう運動もしてますし、その中で東京は自給率1%です。ただ、北海道は200%ある。自給率。
由結: 200%!
第一次産業から六次産業化を目指して
三國:そう、200%あるんです。ですが、その農家とか漁師たちの若者たちがどんどん跡を継がなくて、親も継がせないんです。なぜかというと、北海道ってのは第一産業で、原料だけ売っていくんです。例えば小豆。でも、例えば、伊勢の「赤福」。加工すると何倍もなって返ってくるわけです。九州の明太子。あれも何倍もなって、それは要は加工して標品化して、六次産業化すると豊かになるわけです。未だに北海道のその漁師とか農家は原料しか売ってないので、極端に言えば、若い子の給料はマクドナルドの時給よりも安いんです。であれば、親も継がせないし、子どもなんて継がないですよ。
そこで、このダイヤモンドロマンっていうのを全道的に作って、そのみんな力を合わせて、六次産業化を目指していく。商品化して、付加価値をつけて、それを全国、全世界に、もう、アジアでも北海道はものすごく人気があるんですよ。商品を売って、その農家の人とか漁師たちが、ある程度豊かになれば、若い子はみんな継ぎます。
ただ、北海道でも若い子たちが継いでるところはお金持ちのところです。すごい儲けてるところは若者はいっぱいいます。だからこのダイヤモンドロマン計画、これを日本遺産大使になった一つの証として、全都やるんです。広島もやってますしね。これから北海道も、いろんな人にも提案して、もうぜひやろうと。もうみんなこれも素晴らしいプランだっていうことで、これから日本遺産大使として頑張っていきたいなと思ってます。
日本遺産大使 三國シェフからリスナーへのメッセージ
由結:そうですね。日本各地の活性化というお役目を担っていらっしゃる三國シェフなんですけれども、最後に一言、リスナーの皆様に向けてメッセージをいただきたいと思います。
三國:そうですね。やっぱり今このコロナのことが皆さん大変で、僕自身も2000年から全国の小学校回って、「味覚の甘い、酸っぱい、しょっぱい、苦い、うま味」っていう味覚が大切なんだよっていう運動をしています。それから、いろんな今回のコロナの件で医療従事者の方にお弁当を作ったり。日本遺産大使をやって、食というものを皆様に届けることでこのコロナ禍を乗り切っていく。自給率200%の北海道、そして、故郷の増毛も膨大な土地がありますからいろんな可能性を秘めています。
そこを中心に日本中、様々なものを加工しています。もっといろんなことが自然災害って出てきますから、コロナも含めて。そういう形で乗り切っていければなというふうに強く思っております。
由結:ありがとうございます。素晴らしいメッセージをいただきました。それでは、ご出演いただきまして、本当にありがとうございました。
三國:ありがとうございました。
日本遺産大使 三國シェフ 日本の食・復活への提言
由結:やはりシェフの専門分野は料理ですので、日本の各地で採れる自然豊かな食材をこれからもPRをしていかれるのでしょうね。
有限である食材を守るために
三國:そうですね。こういう時代ですけれども、僕も料理人ですから、北海道中心に日本全国の素晴らしい食材を大切にPRしていきたい。今、日本遺産の場所も104カ所決定したんです。
それはもう日本全国にありますから、そういうところとも一緒に、素晴らしい人たち、農家であり、漁業を営む人たちとともに。そして、食材も無限じゃない、有限。まず環境を守っていく。そして、魚やウミガメなどの生物を復活させることも必須です。でも、実は簡単な話なんです。
なぜかっていうと、1年に採る時間を制限すればいいんです。今はもうずっと採り続け、無制限に採ってるから、結局根こそぎなくなってしまう」。例えば増毛なんか、僕がちっちゃいころからですけど、旗が立つんです。今日はしけだとか。赤が立つと今日はなしだとか。黄色立つともう採るのやめろとか。ずっと前からそうやって調整してきたんです。だから未だにウニは採れてますし、まあ少なくなりましたけどね。そういうことをきちっと守れれば、10年も経てば、昔のように復活するんです。
由結:へえ~そうなんですか。未来への希望が持てますね。
三國:そう。今はもうとにかく採りっぱなしなんですよ。僕が大好きな静岡のサクラエビ。そして、増毛のニシンも、今一匹も採れなくなったんですよ。昔はニシンが山のように採れた。それをずっと採り続けた結果、今一匹も採れない。一匹も。
由結:いやあ、本当に悲しい現実ですね。
弟子たちは見ていた!三國シェフの後ろ姿
三國:うん。だからそういうことも含めて、リーダーとして活動しています。僕も35年お店やってて、何人かのうちの弟子も含めて食育の活動も行なっています。子どもの味覚の授業もずっと2000年からやっていますし、日本遺産大使の活動も行なっています。
そういうことを35年続けていたんですが、先日、うちの弟子たち何人かは、同じことを僕以上にやっていたんです。朝テレビ見て、4月か5月だったんだけど、料理人が集まって病院に弁当届けてたんです。そしたら、その中心になったのがうちの弟子だったんですよ。
由結:わぁ~そうでしたか!
三國:はい。それを見てびっくりして、で、「これはいかん」と。すぐ服部先生をはじめ料理人たちに電話して、我々もやっぱりお弁当作って病院に届けようと。同じ北海道の浜圭介さん作詞作曲で歌を作ってもらって。
由結:素晴らしいメンバーによるご活動ですね。
三國:僕はあんまりこう、「ああしろこうしろ」って言うタイプじゃないんですけど、うちの弟子たちを見て「すごいな」と思いましたよ。「後ろ姿を見ててくれたんだ」と。だから「僕も負けられないな、頑張ろう」と。
由結:いやあ、素敵なお話!有難うございます。
三國:とんでもないです。
由結:ぜひこれからも日本の食文化をさらに豊かに届けていただきたいと思います。
三國:はい。頑張ります。
由結:ありがとうございました。
三國清三さんのプロフィール |
1954年北海道増毛町生まれ。15歳で料理人を志し、札幌グランドホテル、帝国ホテルにて修業。1974年駐スイス日本大使館の料理長に就任。大使館勤務の傍ら、フレディ・ジラルデ氏に師事する。その後も、トロワグロ、オーベルジュ・ドゥ・リル、ロアジス、アラン・シャペル等の三つ星レストランで修業を重ねる。1985年東京・四ツ谷にオテル・ドゥ・ミクニをオープンする。東日本大震災以降、被災地の小学校支援「子どもたちに笑顔を!」笑顔プロジェクトに取り組む。2013年フランスの食文化への功績が認められ、フランス・トゥールにあるフランソワ・ラブレー大学にて名誉博士号を授与される。2015年フランス共和国よりレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受勲。この勲章はナポレオン・ボナパルトにより1802年に創設されたフランスの最高勲章で、日本の料理人へは初めての授与。2019年「JAPONISÉE Kiyomi Mikuni」を出版。映画でいう「オスカー賞」と賞賛される、“グルマン世界料理大賞2020”Hall of Fame部門で唯一入賞し、後世における規範となる傑作と評価される。現在、子どもの食育活動や、江戸東京野菜の普及活動なども進めている。 公益財団法人ラグビーワールドカップ2019組織委員会顧問 |